第47話(最終回)「日金の鬼」伝説と日金山
あたみ歴史こぼれ話(本編)

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あたみ歴史こぼれ話―本編の後に
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伊豆開山の三仙人
東光寺の近くには「日金の伝三仙人塚」といわれる三基の宝篋印塔があります。この三仙人に関する説明が東光寺境内にありますので紹介します。
伊豆開山の三仙人
日金山地蔵堂のさらに奥、木立が切れて笹原となる境い目に、伊豆山を開いた三仙人の廟所と伝えられる三基の石造宝篋印塔が並んでいる。
伊豆山走湯権現の由来を記した『走湯山縁起』によれば、応神天皇二年(二七一)四月、相模国唐浜の海上に直径三尺の円鏡が出現したという。そのとき三十歳あまりの異国風の身なりをし、松葉を常食とし、松葉仙人と呼ばれた人物が高麗山に神鏡を祭ったのが伊豆権現の発祥である。仁徳天皇の御代、松葉仙人によって神鏡は伊豆山に移され、勅命によって社殿を造立した。これによって勧請仙人とも呼ばれた。
仁徳天皇七十一年(三八三)、巨樹の空洞から蘭脱仙人(木生仙人)が出現した。仙人は富士山の噴火や疫病を鎮めて霊験を表し、伊豆辺路(伊豆半島一周の修行路)を開いた。権現の神像はこの時初めて作られたという。
敏達天皇四年(五七五)、大地震とともに金地仙人が現れた。そのころ、高麗より鳥の羽に書かれた読むことのできない国書が届けられ、権現は人の姿で現れてこれを読み解き、朝廷より所領が献じられた。孝徳天皇九年(六五三)、金地仙人の入定し、三仙人の廟窟が並立して設けられたという。
現存する三仙人の石塔は、文化十年(一八一三)ごろ、般若院別当・周道によって、古い石塔を組み合わせて造成されたものである。仙人開山の伝承は、記される年代こそ空想的ではあるが、仏教公伝以前から伊豆山が神仙の鎮まる霊場であったことを主張しているのであろう。
なお称名寺本『浅間大菩薩縁起』によると、往古の富士登頂者として走湯山開山の仙人と似た金時・覧薩・日代の名が記録されている。『走湯権現当峰辺路本縁起集』では伊豆山と富士山を両界曼荼羅の入口と出口に位置づけており、往古より両山一体の修験霊場と考えられていたようである。
日金の三仙人宝篋印塔
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