第25話「唄と踊りの本格的師匠 坂東三代吉」

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ページ番号1011149  更新日 令和3年6月2日

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あたみ歴史こぼれ話(本編)

2021.5.12
「あたみ歴史こぼれ話」第25話(令和3年(2021年)5月号掲載)


※広報あたみの原本をご覧になりたい場合は、
以下のリンク先からご覧下さい。

あたみ歴史こぼれ話―本編の後に

このコーナーでは、「あたみ歴史こぼれ話」で
掲載しきれなかったことを中心にご紹介します。
本編を読み進んだ後に、ご覧ください。

※このページで掲載されている画像は、閲覧のみ可能といたします。
 画像の保存、複製及び使用は禁止といたしますのでご遠慮ください。

 

1.今回は、熱海の花柳界に多大な足跡を残した唄と踊りの本格的師匠「坂東三代吉」の話ですが、大正9年12月30日に発行された『熱海と五十名家』という本に「熱海の今昔と其演藝の變遷」という題名で本人談が掲載されていますのでその一部を紹介しましょう。

 私は本名を樋口ろくと申しました當大正九年で八十一歳になりましたのです。元は東京市牛込區二十騎町に住んでをりました樋口淺之助(ひぐちあさのすけ)と申す士族の末女(まつぢよ)でございましたんです。で幼年の頃小石川傳通院前の坂東三津枝(ばんどうみつえ)の門弟になりまして遊藝(いうげい)のお稽古を致しました。私の義理ある師匠は旗本の川住(かはずみ)うら子樣といふ方でしてね、藝名(げいめい)を秀代(ひでよ)と云つて尾張様(おはりさま)の出家中(でかちう)でございましたんです。此の方の父御樣(ちちごさま)は貳拾年間江戸詰(えどづめ)となつて居られましたので、其のお孃樣のお相手を致して御一しよに藝を習ひ覺えましたのです。そしてね、あなた。川住樣が名古屋へお歸(かへ)りになります時ろくを貸して呉れとたつてのお望みでございましてね、私もお稽古が出來るからと思つてね、十三歳の時から十八歳まで、炊事其の他の御用をしながら、ちやうど六年の間、おそばでいろいろ習ひましたんです。それからね、私は兩親の勸(すす)めで他へ嫁(かたづ)いたんですよ。

 ところが明治の御維新(ごゐしん)となつたんですからね、それまで父が戴いてをりましたお祿(ろく)は取りあげられてしまひましたんですからね、其時私はかう思つたんですよ。私は末女であるから、これから遊藝の師匠になつて暮しを立てようか知ら。けれどもさうなると、あの女は淺右衞門(あさゑもん)の手下(てした)だの、河原者(かはらもの)だの、なんて云はれるのは、士族の名を汚すのだとも思ひましてね、まことに殘念でね、暫くはどうしようかと迷つて、情けなくてたまらなかつたんですよ。けれども實母(じつぼ)が沼津に居て私を呼んで呉れたのです。

 ところがまたそこにいろいろの事情がありましたんですからね、私はそこにはたつた三十日ばかりゐてね、再び東京へ歸ると申してね、とうとう此の熱海へ來たんです。あなたそれはね、明治十年の頃なんですよ。其の頃の熱海には萬屋(よろづや)の菊さんのお母さんが内職にね、常磐津(ときはづ)の師匠をしてをつたのが素人のお師匠さんでしたの。又相模屋(さがみや)の番頭さんでね、相田傳兵衞(あひだでんべゑ)といふ方がお客さんの慰みかたがたに折々長唄をやつてゐた位のものでした。けれどね、みんな、私處(わたくしところ)へ來ておさらひをしたのです。もつともその頃とてもね、おひおひに市山直次(いちやまなほじ)とか養老君之助(やうらうきみのすけ)とか云ふ人がね、踊りの師匠の看板をかけて弟子を取るやうになりはじめましたのです。又藤間大奴(ふぢまおほやつこ)だと名乗つて五日間の寄席(よせ)を打つたものもありましたがね、あなた、それはね、全くの似せ者でね、三日間やつて、つぶれてしまつたんです。そのほか幾人も幾人もやつて來たのですがね  、熱海へは誰が來て稽古場を始めてもですね、みんなつまりは潰れてしまつたのですよ。それは私のやうな者がゐてあんまりなのを此町にはびこらせては土地の名折れになると思つて、時々は無遠慮なこともいひましたからね、煙つたくなつたからでもありませうよ。

 私はね、初め新横町(しんよこちやう)に住んで十五年の間は野中に居て又十五年間元村(もとむら)へ移つて、今は此の新濱町(しんはまちやう)で皆さんの御ひゐきになつてゐますが、ちやうどもう四十何年の間をこゝで過ごしたんです。それですからね、あなた、故人となつた横濱の高島權藏樣(たかしまごんざうさま)はね、よくおつしやつて下さいましたのですよ。お前は永い間、熱海の爲(ため)に浴客(よくきやく)の心を樂ませて滯在日を延すことに骨折つた人だから熱海の宿屋なんかはお前を大切にして、特別に羽織でも着せてお客の接待主任とやらをさせる樣にしなければならない筈だなんかんとおつしやつて下すつたことがあつたんですよ。はゝゝゝゝ。

 はい、私の藝は、長唄は杵屋流です、踊は坂東派です。熱海でいつも御ひゐき下さるのは、元の眞誠社(しんせいしや)元の相模屋さん、それから富士屋さん、樋口さん、玉屋さん、萬屋さん、露木さんなぞです。

 あなた、斯の道についての熱海の變遷(へんせん)ですか、それはね、お客樣のお好みはいつでも變(かは)りはないのですよ。卽(すなは)ちお自分(みぶん)のあるお方は長唄に限ります。今でも隨分いらつしやいますが、大抵長唄ですよ。

以上、一部抜粋しました。

 

2.撥扇塚供養祭風景

 

撥扇塚
平成31年度 撥扇塚供養祭
大乗寺
大乗寺にある撥扇塚

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