第4話「「金色夜叉の碑」を建てるなど、もってのほか!」
あたみ歴史こぼれ話(本編)

※広報あたみの原本をご覧になりたい場合は、
以下のリンク先からご覧ください。
あたみ歴史こぼれ話―本編の後に
このコーナーでは、「あたみ歴史こぼれ話」で
掲載しきれなかったことを中心にご紹介します。
本編を読み進んだ後に、ご覧ください。
画像の保存、複製及び使用は禁止といたしますのでご遠慮ください。
第4話の執筆時に参考にした『熱海温泉いしぶみ巡り』
(久保田道雄が熱海新聞に連載したもの)には、「金色夜叉の碑」を建設した
経緯が詳しく書かれています。第4話では紙面の都合上、触れなかったことを
『いしぶみ巡り』からいくつか紹介します。
【「金色夜叉の碑」の碑文について】
「碑文を誰に書いて貰うか―と云うことは當時相當に研究され一部では泉鏡花、
巌谷小波氏という説が多かった。然し、金色夜叉としては『後の金色夜叉』を
小栗風葉氏が書いて居り、然もその終末を再び熱海々岸へ持って來て
狂えるお宮を抱いた貫一が海に向かって、『宮さん二人は淋しいねえ-』と
叫ぶあたり、小説を主として考えた場合小栗風葉氏とすべきだ―と云う
文学青年の説が勝を占めて現在の風葉氏のものとなつた。
『宮に似たうしろ姿や春の月』と云う名句が、其の後どんなに熱海を
宣傳したか!建碑以来三十余年、風葉山人に對しても改めて感謝の意を
表さねばなるまい。」
【キティ台風に見舞われた時の様子】
「此の金色夜叉の碑も、先ごろのキテイ台風の時に全く崩壊し、いしぶみも
危く海中に沒し去らんとしたのだが、當時の代議士、つるや旅館畠山鶴吉氏が
人夫數十名を雇あげて碑をロープで結び、辛うじて流失を免れしめた!
後、觀光課の復舊工事により舊態に復するを得たがあの碑の上部の欠けてゐる
ことは其の時の遭難の記念と云う譯である。」
【碑の建設を計画した神保弥三郎へ感謝状】
「昭和23年1月17日 時の熱海市長岸衛氏は神保氏の遺徳を偲び、その遺族に
感謝狀を贈呈してゐる。
感 謝 狀
故神保彌三郎氏が故尾崎紅葉山人の名作『金色夜叉』を永遠に記念する爲め、
同志と共に大正八年八月十五日、此の地に金色夜叉の記念碑を建設され、爾来
風雨星霜三十年熱海の名をして紅葉と共に宣揚されたことは今日まことに
感謝に堪えません。こゝに、紅葉逝いて五十年の梅まつりに際して感謝狀を
贈り深く感謝の意を表します。
昭和二十三年一月十七日 熱海市長 岸 衛」
今回は、実際に「熱海温泉いしぶみ巡り」が連載されていた新聞記事を
下に掲載しますので、ご覧ください。

※大きい画像をご覧になりたい場合は、下の添付ファイル(「熱海温泉いしぶみ巡り」記事)からご覧ください。
-
「熱海温泉いしぶみ巡り」記事(大きな画像で見ることができます) (Jpeg 1.2MB)
(出典:熱海新聞 昭和29年9月3日付)
このページに関するお問い合わせ
教育委員会 生涯学習課 網代公民館 歴史資料管理室
〒413-8550 熱海市中央町1-1
電話:0557-48-7100ファクス:0557-48-7100
お問い合わせは専用フォームをご利用ください。