第6話「温泉宿のまちにホテルが出現!~成島柳北も称賛した~」

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ページ番号1009097  更新日 令和2年7月28日

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あたみ歴史こぼれ話(本編)

「あたみ歴史こぼれ話第6話の画像
「あたみ歴史こぼれ話」第6話(令和元年(2019年)10月号掲載)

※広報あたみの原本をご覧になりたい場合は、
以下のリンク先からご覧ください。

あたみ歴史こぼれ話―本編の後に

このコーナーでは、「あたみ歴史こぼれ話」で
掲載しきれなかったことを中心にご紹介します。
本編を読み進んだ後に、ご覧ください。

※このページで掲載されている画像は、閲覧のみ可能といたします。
 画像の保存、複製及び使用は禁止といたしますのでご遠慮ください。

【『熱海温泉案内』で紹介される樋口ホテル】

 日本で3番目に建てられたといわれる「樋口ホテル」は、明治24年(1891年)
 『熱海温泉案内』という案内冊子を発行し、熱海温泉と自らのホテルを
 宣伝しました。今回の「歴史こぼれ話」で紹介した「食事の調え方」は、
 この冊子に紹介されていたもので、次のように記されています。

  「客人の温泉宿に滞在(とうりゅう)する間坐敷及び臥道具(ねどうぐ)
  飲食器具(のみくいのどうぐ)は固(もと)より客舎にて貸すものなれど
  食物の調へ方は種々ありて客人の好みに任す ○第一を自賄(じまかなひ)と云ふ
  客人自ら食物を調へ又は下婢(げじょ)を雇ふて調へしむるなり ○第二を俗に
  伺ひ(うかがひ)と云ふ 客舎より三度三度調理すべき食物を客人に伺ふて
  調ふる故の名なり 食物に好き嫌いある人又は毒絶(どくだて)ある人は
  面倒と入費の嵩む憂ひあれどもこの二つの内を擇(えら)まざるべからず
  ○第三を宿賄ひ(やどまかなひ)と云ふ 賄料一日何程と定めて客舎の適宜に
  食物を調へしむるなり 客舎によりては宿賄ひを謝(ことわ)るものあれど、
  弊店(てまへ)にては三種とも御好みに任す 又、客舎にて洋食賄ひをなすは
  弊店一軒のみなり。」


【成島柳北について】

 次に成島柳北ですが、彼は将軍徳川家茂(とくがわいえもち)の侍講
(将軍などに学問を教える職)などを経て、幕末には騎兵頭(きへいがしら)、
 外国奉行、会計副総裁などを歴任しました。しかし、明治維新後は新政府には
 仕えず、明治5年(1872年)欧州を巡り、帰国後の明治7年(1874年)に
 『朝野新聞』を創刊して社長に就任しました。
 山田兼次氏の著書『熱海風土記』から彼について書かれた一節を紹介しましょう。
 
  「柳北は、明治11年(1878年) 9月、箱根から十国峠を越えて熱海に入湯し、
   「澡泉紀遊」(そうせんきゆう)を朝野新聞社発行の「花月新誌」に連載し、
    熱海の美しい風光をひろく世間に紹介した。明治14年(1881年)の熱海紀行
   「鴉(からす)のゆあみ」(『熱海文藪(ぶんそう)』)には、その1、2月の
   ころ、熱海に滞在していた知名人の名が列挙されていて、当時の浴客の傾向を
   知ることができる。
   〈熱海ニ達ス。先ヅ浴客ノ多少ヲ問フ。與丁(よてい)曰ク、居マストモ
    居マストモ、参議デハ大隈さん、伊藤さん、今晩井上(馨)さんモ
    御座ルシ、横浜高島屋ノ旦那
   (高島嘉右衛門)、神奈川ノ県令(野村靖)さん、裁判ノ富永藤治
   (冬樹)さん、佐土原ノ殿様(島津忠寛)、高崎ノ殿様(大河内輝声)ヲ
    始メ、上ノ湯屋ハ大入リダ〉」


 熱海での功績を称えて建てられた成島柳北の記念碑は、昭和10年
(1935年)、当時の樋口旅館の庭内に建てられましたが、現在は
 「マリンスパあたみ」のある熱海海浜公園の入口に移されています。
 石碑の裏側には、彼が詠んだ歌

  「う志(し)と見る よにただひとつ たのしきは あたみのさとの ゆあみなりけ里(り)」
 
 が刻まれています。

成島柳北記念碑表側の画像
成島柳北の記念碑(表側)
柳北の肖像が彫られています。
成島柳北記念碑裏側の画像
成島柳北の記念碑(裏側)
柳北の歌が刻まれています。

このページに関するお問い合わせ

教育委員会 生涯学習課 網代公民館 歴史資料管理室
〒413-8550 熱海市中央町1-1
電話:0557-48-7100ファクス:0557-48-7100
お問い合わせは専用フォームをご利用ください。