第46話 稲田武市と戸又港の開設 ~タウトが見た上多賀~

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ページ番号1013378  更新日 令和5年2月21日

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あたみ歴史こぼれ話(本編)

「あたみ歴史こぼれ話」第46話 稲田武市と戸又港 ~タウトが見た上多賀~
「あたみ歴史こぼれ話」第46話 稲田武市と戸又港 ~タウトが見た上多賀~ (2023年)2月号掲載


※広報あたみの原本をご覧になりたい場合は、
以下のリンク先からご覧下さい。

あたみ歴史こぼれ話―本編の後に

このコーナーでは、「あたみ歴史こぼれ話」で
掲載しきれなかったことを中心にご紹介します。
本編を読み進んだ後に、ご覧ください。

※このページで掲載されている画像は、閲覧のみ可能といたします。
 画像の保存、複製及び使用は禁止いたします

 

 

若き多賀村長の「公共事業」

 稲田武市村長の事績については、加藤好一 著 『再発見 熱海市民の近代史』に詳しく載っているので紹介します。

若き多賀村長の「公共事業」

 『多賀小学校創立百周年記念誌』(昭和49年)には、たくさんの教師の思い出が記されている。だが、5人もの元「児童」がそろって印象深く回想している教師はただ一人、それが稲田校長であった。

 たとえば西島素六氏は1年生の入学式で元気な返事をほめられ、井沢敏夫氏はやはり入学式で「もう子どもではないので言葉づかいを改めよう」との訓示に親子で首をすくめたことを懐かしく記している。盤木円乗氏にいたっては、「新聞・雑誌は便所で読んで時間を節約せよ」との「修身」授業での師の教えを老年になっても実践していた。

 幼い子どもの心に、長い年月を経てもこれだけの印象を刻みつける教師がどれほどいるであろうか。

 時は大正の末年・・・稲田家に残された「履歴」によれば、彼は大正9年3月31日に早くも多賀尋常高等小学校の訓導兼校長となっていた。6歳のときに多賀の山田(彦五郎)家から稲田(市郎兵衛)家の養子となり、韮山中学から静岡師範にすすんだ、当時28歳の俊秀であった。

 その後、稲田武市先生は、大正15年・34歳の時に望まれて多賀村第14代助役となり、ついで昭和5年6月10日には38歳にして多賀村第12代村長に推された。この間、同時に多賀信用購買販売利用組合長・上多賀漁業組合長・多賀村消防組組頭を歴任する。

 いわば未だ40歳にもならぬ若さで、彼は多賀村のすべてを単身で担う文字通りのリーダーとなったのだ。いったい当時の多賀村には、そのような若き指導者を必要とするどんな事情があったのであろうか。

 先述の熱海町・網代町の例でも分かるとおり、それは世界恐慌による大不景気のためとの一言に尽きる。多賀をはじめとする小作制下の農村は、その不況のもとで「伊豆飢饉」とささやかれるほどに疲弊していた。問題は、そこで何ができるかということである。村民は、その困難打開の先導を、優れた教育者でもあった若き村長に託したのだった。

 就任2年後の昭和7年7月、まず多賀村立病院が設立される。そこでは医師・看護婦・助産婦をそろえ、実費で村民を治療するとともに予防注射などで伝染病の防止に全力を尽くす。おかげでその発生は減り、児童のトラホームもかなり少なくなった。

 工費2000円・設備2000円・病室は3室を備え、計9名を収容できる。「上多賀には医者がなくて・・・病人は熱海か伊東に行くが、峠を越えるには、やはり戸板に乗せていった」(『多賀民俗誌』 山田いと 城ケ崎文化資料館)。そんな状況への村当局の精一杯の対応であった。

 隣の網代町では、まだ好景気の大正12年以来東京帝大卒の「町医」を1名配置していたが、「病院」の設置までは至らない。それに対し村立病院の建設は、財政が厳しい中で小さな多賀村が思い切って実践した大きな事業であった。(稲田家所蔵『稲田武市翁資料』中「村勢」による)

 だが、稲田村長が最も力をいれて取り組んだことは、村営の「公共事業」を起こすことであった。

 政府は恐慌から農山漁村の経済を救うために、昭和7年から9年まで3年間に8億円を投じて時局匡救事業を行う。これは村々が起こす土木・港湾改良などの工事に国から多額の補助を行い、道路や施設の整備をすすめる一方で、貧農や失業者に労働の機会を与えて経済の回復につなげようというものだ。

 いわば、日本版「ミニ・ニューディール政策」とでもいえようか。稲田村長はその機会をとらえ、昭和7年3月にこの匡救事業の指定を受けて、上多賀・戸又港の船溜建設事業を起こすことに成功したのである。

 船溜とは、堤防のある小さな港のことである。昭和の初めまで、戸又は自然の入り江を利用した名ばかりの港であり、伝馬船や手漕ぎの漁船の船揚場として利用されていた。だが漁船の動力化・大型化がすすむと、それらをかんたんに陸揚げすることはできなくなる。かといっていつまでも手漕ぎのままでは、時代の波に取り残されてしまう。そこで戸又にも、大型動力漁船を安全に係留できる船溜が必要となった。

 不要不急の工事ではなく、村にぜひとも必要な港の改修=産業基盤整備=をすすめることで、同時に村の失業者や困窮者には仕事と現金収入を与えていく。しかもその5万余円を要する大事業を一部の請負師などに任せて不当にもうけさせるのではなく、村営ですすめる・・・。

 それが稲田村長の考えた “地域密着型” の公共工事であった。調べてみるとこの昭和7年に、全国ではあわせて194の船溜工事が時局匡救事業に基づいて着工されていた。(『漁港四十年史』全国漁港協会 昭和63年)

 その戸又港船溜工事の完成を見ずに、稲田武市は不幸にして昭和9年3月4日に逝去する。しかし今日、港を臨む地にはその胸像と船溜開設記念碑が建ち、 “地域密着型” 公共事業を起こして大不景気に立ち向かった若き村長の事績を伝えている。

 マイナスをプラスに変えて大恐慌を迎え撃つ・・・そのための取り組みは、熱海でも、多賀でも、網代でも、このような形で行われていた。

 

        

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