第26話「頼朝・政子ゆかりの地 伊豆山」

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ページ番号1011301  更新日 令和3年6月25日

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あたみ歴史こぼれ話(本編)

「あたみ歴史こぼれ話」第26話
「あたみ歴史こぼれ話」第26話 頼朝・政子ゆかりの地 伊豆山(令和3年(2021年)6月号掲載)


※広報あたみの原本をご覧になりたい場合は、
以下のリンク先からご覧下さい。

あたみ歴史こぼれ話―本編の後に

このコーナーでは、「あたみ歴史こぼれ話」で
掲載しきれなかったことを中心にご紹介します。
本編を読み進んだ後に、ご覧ください。

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 画像の保存、複製及び使用は禁止といたしますのでご遠慮ください。

 

あたみ歴史こぼれ話 第二十六話では、「頼朝・政子ゆかりの地 伊豆山」を紹介しましたが、伊豆山より南方面にある多賀地域にも伝承されている物語が「郷土多賀村史」にありますので紹介しましょう。

(原文ママ 一部フリガナ追加)

・長浜の伝説

往昔の長浜海岸は砂浜が広く長く連なっており、山の麓から海岸に至る迄一面の松林であったと云い、小松ヶ原と云われていた。
ここの山麓に自香院という真言宗の庵寺があった。この自香院と松原に頼朝公にまつわる奇しき伝説が伝っている。
源氏の頭領頼朝公は流人の身を伊豆の韮山蛭ヶ小島に二十年の歳月を送っていた。いつしか北条時政の娘政子姫と恋を語る仲となり、深く交りを結ぶようになった。
北条政子は山木判官兼隆と婚約中であったが、婚礼の当日に至りひそかに愛人である頼朝の待っている伊豆山権現に逃れた。頼朝と政子の密会の場所としてこの小松ヶ原の自香院が人目を忍ぶ屈強な場所であった。又屢々東国の源氏にゆかりのある武士達とも相い集って源氏再興の語らいをしたという伝承がある。或る日頼朝公は政子姫から是非共会いたいとの急使を受けたので直ちに韮山より乗馬で山伏峠を越えた。政子は伊豆山からここに来て頼朝公の来るのを待っていた。二人は自香院で相会し庭先の小松ヶ原を逍遥しながら政子姫は
「妾は一夜観世音菩薩より一葉の文を授けられ、之を開いてみると(是)という一字が書かれていた。之を堅く右の掌に握って夢はさめた。あまりの不思議さに翌日陰陽師を呼んで夢の意味を尋ねてみた。陰陽師はこの夢を判断して「是」の一字を分解すると日の下の人となる。これは天下を掌握するの瑞相であると告げられたので、この吉報を一日も早く殿にお告げ参らせたいと思いお出でをお願いしたのである」と語った。頼朝はこの話を聞いて頷いて「よくこそ告げてくれた。その夢の意こそ我が望みである。我が願成就達成の暁は観音菩薩の像を建立して仏恩に報い奉らん」と喜んで答えた。二人は共に語らいながら逍遥の後、浜辺の松のもとに憩い、政子姫は被衣(かつぎ)を脱ぎて松の垂れ下がった枝にかけて懐紙を取り出してすらすらと筆をとって書いた。
「小松とは誰が言ひ初めし大空の雲をも凌ぐ高松の枝」
と一首認(したた)めて頼朝公に示した。頼朝公はこれをみて莞爾として筆をとって
「雨風のうき歳月に堪へてこそ空をも覆ふ高松の枝」
と認(したた)めて返歌として自分の意志を伝えたと。
爾来星霜は移り変わり、昔の小松ヶ原の面影は見るに由なく、政子姫が被衣(かつぎ)をかけた松もすでに枯れ果てたことだろう。彼等二人の語り合いの物語りは一種の伝説として残るものであるが、当の自香院は宝林山海福寺となり、浄土宗の寺院として下多賀雁毛石の地に建立されている。

出典「郷土多賀村史」大高吟之助 著

 

・宝林山 海福寺(自香院)

1.寺の沿革小史

 海福寺は宝林山自香院といい、もとは真言宗の小庵で東明寺の末寺であったが、網代村教安寺(十一世)栄蓮社然誉上人願秀大和尚が開山となって「正保二酉年(一六四五)五月廿七日、江戸芝増上寺弐拾三世葉誉上人ヨリ宝林山、海福寺ト云フ山、寺号ヲ下賜サレテ浄土宗トナツタ」寺は元は下多賀の中野にあったが、後に新釜仁多田に移り、更に三転して現在地雁毛石に移された。(郷土多賀村史より一部抜粋)

出典「郷土多賀村史」大高吟之助 著 

2.海福寺画像

 

海福寺1
海福寺 1
海福寺2
海福寺 2

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〒413-8550 熱海市中央町1-1
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