第34話 熱海名産 雁皮紙(がんぴし)

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ページ番号1012665  更新日 令和4年5月12日

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あたみ歴史こぼれ話(本編)

「あたみ歴史こぼれ話」第34話
「あたみ歴史こぼれ話」第34話 熱海名産 雁皮紙(令和4年(2022年)2月号掲載)


※広報あたみの原本をご覧になりたい場合は、
以下のリンク先からご覧下さい。

あたみ歴史こぼれ話―本編の後に

このコーナーでは、「あたみ歴史こぼれ話」で
掲載しきれなかったことを中心にご紹介します。
本編を読み進んだ後に、ご覧ください。

※このページで掲載されている画像は、閲覧のみ可能といたします。
 画像の保存、複製及び使用は禁止いたします

 

 

『熱海市史』熱海雁皮紙のはじまり~雁皮紙の江戸売捌き

 江戸日本橋の金花堂より販売され、人気を博した熱海産の雁皮紙ですが、『熱海市史』に「熱海雁皮紙のはじまり」「雁皮紙の江戸売捌き」の記載がありますので紹介します。

「熱海雁皮紙のはじまり」

 伊豆の紙では、修善寺紙というやや赤味を帯びた紙漉(す)きが有名である。豊臣秀吉のころ、すでに三椏(みつまた)をたねとした紙を漉いていたらしい(『日本の紙』)。慶長三年(一五九八)に、修善寺文左衛門にあてた徳川家康の「紙漉免許黒印状」(『静岡県資料』第一輯「三須文書」・「熱海名主代々手控抜書』)によると、伊豆国内の「鳥子草(とりのこくさ)、がんぴ・みつまた」は文左衛門以外の採取を禁ずるとともに、将軍公用の紙を漉くときには立野(たちの)・修善寺(ともに現在伊豆市・熱海市史作成時は修善寺町)の紙漉きが手伝うよう定められた。文左衛門は僧西林より製紙法を習得したというが、彼の漉いた紙が家康の心にかない、駿府に屋敷を与えられ、朱印状(前出の黒印状をさすのであろう)を下付されて、彼の紙独占に対する保護がなされた。しかし元禄ころには御用紙の命をうけないようになり、その子孫の独占もすたれた。

 熱海雁皮紙の濫觴(らんしょう)は天明七年(一七八七)である。そのころ高松の人で阿波藩の儒者柴野栗山(りつざん)が熱海に遊びにきて、付近の山間に雁皮が野生しているのを発見し、名主今井半太夫(箋斎・専斎(せんさい)とも徳翁(とくおう)とも号す)にすすめて加工させたものである。栗山は天明八年に幕府の昌平黌(しょうへいこう)に招かれ、松平定信のもとで古賀精里(こが せいり)・尾藤二州(びとう じしゅう)らとともに朱子学の昂揚につとめ、寛政異学の禁を実施したいわゆる「寛政の三博士」の一人として有名である。

 半太夫は夏には繁昌している温泉宿が冬になるとさびれるので、その対策として資本を出し、糸川畔で雁皮紙の製造をはじめたが、最初の試みは成功しなく、再度栗山が熱海をおとずれるにおよんで、うまくいくようになったそうで、温泉宿や商人をはじめ人足にいたるまで、ひまなときには、競って今井宅に集まり、雁皮を煮たり、たたいたりして、紙漉きにあたったといわれる。半太夫は五〇余才で、この事業をはじめ、精魂をうちこんだために、六〇才にして九〇才にみえるほど、老けていたと成島司直(なるしま もとなお)はいっている(享和二年『熱海紀行』)。それだけに、村民は栗山と半太夫の恩義を忘るべからずと感謝した。はじめは原料の雁皮を修善寺辺より買い入れることもあったが、のちには栽培もこころみるようになった。もっとも雁皮は移植がむずかしかったので、成功しなかったらしく、『多幸日記』の著者本間游清が文政十二年(一八二九)に見聞したところでは、

 今ハ近山の雁皮をとり尽して、ひろく諸方より買求むといえり、予彼地にてみしに、民家の婦女ども此草を水に浸して皮をはぎて今井の家に持ち来るを生産とせり、今は雁皮のみならず、結香(みつまた)を交え多く用ふる故に、民家にも山家にも結香をうゑたり

ということである。

 

「雁皮紙の江戸売捌き」

 安政二年(一八五五)の二月十五日、ロシア応接掛川路聖謨(としあきら)はロシア使節プチャーチンを下田に応接の途上、今井半太夫方に止宿したが、彼は半太夫宅を金花堂の本店といっている(『大日本古文書』幕末外国関係文書附録「川路下田日記」)。金花堂は江戸の日本橋通町四町目(八重洲通り日本橋側)にあり、須原屋佐助が経営する紙・扇類を販売する商店であった。半太夫がこの金花堂をとおして雁皮紙を売り出したのは、文化初年のことで、ひろく文人・墨客や通人の間に賞用され、全国的に評判になったといわれるが(増訂『武江年表』・『多幸日記』)、実際には享和には店が開かれており、専斎(せんさい)の弟蓬壺(ほうこ)が経営にあたっていた。成島司直が帰郷中の蓬壺に会うのは享和二年(一八〇二)五月であった。

 当時、「雁皮紙」の字を白い暖簾(のれん)にかけた店は金花堂のほかに、日本橋万町の聚玉堂榛原(しゅうぎょくどう はいばら)(いまの西川ふとん店の地)と、日本橋本町一丁目の今井(日本銀行付近)があり、名こそちがえ、金花堂の初代佐助が経営にあたったといわれる(岡義城『江戸東京紙漉史考』)。この三店は諸国の紙類・小間物・筆墨などを販売したが、なんといっても熱海産の雁皮紙の売捌きが看板であった。榛原は現在の株式会社榛原商店の先祖で、江戸十組紙問屋の三番組に属していた。

 雁皮紙には厚紙と薄葉(うすよう)があるが、熱海産のものは一般に薄葉が多い。緻密で光沢に富んでいるうえに、じょうぶで墨つきもよいから、楮(こうぞ)製の紙に慣れた人々には目新しく、大へん愛玩されたため、売行きはしだいに増加した。薄葉は三椏(みつまた)をまぜずに雁皮だけで漉いたが、分厚い書籍でもかさを減ずるため、書画の臨写用とか袖珍本(しゅうちんぼん)(当時のポケット・ブック)用にとくに使用された。

 ことに色漉きのものを「五雲箋」と名づけ、半切として売り出した。浅黄・茶・桃・鼠・金の五色に漉き上げるのが、最も苦心のいるところであったが(拓殖清「駿河半紙と雁皮紙」-『静岡県郷土研究』十二輯所収)、文政九年に金花堂で出版した『うすやう色め』によれば、紫や紅・青・縹(もえぎ)・黄・赤・緑など、おのおのに正色および浅深があって、すべて三二品あったといわれる。天保七年の『江戸名物詩』に、半切文筒短冊鮮、暑中団扇幾多銭、金花堂上金花発、染出雁皮五色箋、とあるほど金花堂の雁皮紙は有名であった。『江戸買物独案内』(文政七年)にも、豆州熱海今井半太夫製の雁皮紙所の元祖として、金花堂と榛原の目録があげられている。

 雁皮紙へ文を書くのはうつて付け

 雁皮紙へ書くかうがいのむしん文

 雁皮紙へ帰れと北へ母の文

 雁皮紙へ又来いと書く湯女の文

 客招く文に雁皮の尾花ずり

 雁皮紙を題とした川柳を右にあげたが(『江戸東京紙漉史考』)、これらの川柳からみると、通人たちや吉原の遊女たちに、つねづね書翰箋として利用されていたこがわかる。

『熱海市史』より抜粋(一部送り仮名等追記)

 

※成島司直(なるしま もとなお) 

 江戸幕府奥儒者であり、従五位下・図書頭。儒学者・歴史家・政治家・文筆家・歌人。幕府正史『御実記』の編纂事業をおこなった。

 温泉好きで、主君から、熱海温泉に行く休暇を許可されたとき、喜びのあまり

「なみならぬ 恵ならずば はしり湯の 早きしるしを いかで身にえむ」

の短歌を詠んでいる(『熱海紀行』(享和二年(一八〇二))

       

 

雁皮紙目録

江戸日本橋の金花堂より販売された、今井半太夫製の雁皮紙ですが、その製品目録が「国文学研究資料館」に現存しているので紹介します。

 

 

 

画像1
豆州熱海今井半太夫製 元祖 雁皮紙目録(国文学研究資料館 所蔵)

 

 

 

 

このページに関するお問い合わせ

教育委員会 生涯学習課 網代公民館 歴史資料管理室
〒413-8550 熱海市中央町1-1
電話:0557-48-7100ファクス:0557-48-7100
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