第12話・第13話「熱海市の誕生」
あたみ歴史こぼれ話(本編)


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あたみ歴史こぼれ話―本編の後に
このコーナーでは、「あたみ歴史こぼれ話」で
掲載しきれなかったことを中心にご紹介します。
本編を読み進んだ後に、ご覧ください。
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【市制賛成派と反対派の対立続く】
市制賛成派と反対派の対立が激しい中、昭和12年4月10日に熱海町と
多賀村が合併し、何とか市制施行まで漕ぎつけることが出来ました。
しかし対立は依然続き、初代市会議員を決める選挙で、賛成派の「市政会」と
反対派の「愛郷連盟」は対決することとなりました。
「市政会」と「愛郷連盟」は候補者を擁立し、それぞれ「立候補の御挨拶」
「推薦状」を発行しました。
愛郷連盟は、合併に至るまでの問題点を指摘すると共に、市制になったことに
よる増税、温泉湯量の不足、熱海の景気の悪化、別荘所有者の減少について、
「推薦状」で懸念を示したのに対し、市政会は「立候補の御挨拶」でこれを
否定するなど、両者の主張は激しく対立しました。
【初の市会議員選挙の結果は】
最初の市会議員選挙は、有権者数3,392人に対し、投票数3,240と
投票率は95%を超えました。当時の市民の関心の高さが窺えます。
さて、選挙の結果は、得票数の1位、2位を市政会で占めたにも拘わらず、
全体の当選者数は市政会よりも愛郷連盟の方が多くなりました。これにより、
初代熱海市長は愛郷連盟総帥の樋口修次が推薦され、元熱海町長の坂本藤八は
市会議員を辞め故郷へ帰ることになりました。
東豆新報、読売新聞(静岡讀賣)は、当時の選挙の結果を詳しく伝えています。
【元町長を訪問した名芸妓】
昭和36年(1961年)4月、故郷宮崎で余生を送っていた元熱海町長の坂本藤八を、
私設秘書であった井上常七と共に訪問したのが、熱海で最も有名な名芸妓である
「お花さん」こと若椙はなでした。彼女について少し紹介しましょう。
噺家・初代春風亭柳朝の末娘として、明治27年(1894年)熱海で生まれた
彼女は、19歳の頃、姉 若椙きくのもとで三年間芸を仕込まれた後、お座敷に
出始めました。
政財界の一流の客に気に入られ、熱海に別荘を持っていた坪内逍遙からは
「春廼家」の雅号から、そのまま「春の家」という屋号を付けてもらった程でした。
売れっ子の彼女が出る舞台では、連日旅館は満員となり、押しも押されもしない
名芸妓となっていきました。
昭和12年(1937年)の熱海市制問題では、市制推進派の市政会を支持して活動し、
婦人参政権が認められた戦後の昭和22年(1947年)春には、市議会議員に
立候補しましたが惜しくも落選。その後は芸妓とお好み焼き屋「お花茶屋」を
切り盛りし、昭和49年(1974年)2月、78年の生涯を終えました。
(参考:『続熱海風土記』山田兼次著)
※今回ご紹介した記事の中の、「推薦状」や「立候補の御挨拶」、新聞記事の大きな画像を
ご覧になりたい場合は、画像の下の添付ファイルをご覧ください。

市制施行までの問題点と市制後の懸念を激しい論調で述べています

愛郷連盟が指摘した市制後の懸念を、真っ向から否定しています

(出典:東豆新報 昭和12年6月25日号(号外))

(出典:讀賣新聞 昭和12年6月26日号(静岡讀賣))

(出典:宮崎新聞 昭和36年4月19日号)
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