第40話 戦時下の熱海
あたみ歴史こぼれ話(本編)

※広報あたみの原本をご覧になりたい場合は、
以下のリンク先からご覧下さい。
あたみ歴史こぼれ話―本編の後に
このコーナーでは、「あたみ歴史こぼれ話」で
掲載しきれなかったことを中心にご紹介します。
本編を読み進んだ後に、ご覧ください。
画像の保存、複製及び使用は禁止いたします。
東京からの学童疎開
将兵・傷病兵の休養地としての熱海には、戦局が進むと知名人たちも疎開してきましたが、そのほかにも東京からの学童の疎開を受け入れました。
そんな東京からの学童疎開について、『熱海市史』(下巻)第五篇に記述があるので紹介します。
東京からの学童疎開
戦争の末期になると、熱海にはさらに別の集団が疎開してきた。昭和十九年六月に決定された東京の学童疎開計画によると、学童疎開の割当数では、静岡県は長野県についで第二位を占め、およそ二万五千名を受け入れることになっており、伊東・修善寺・長岡・沼津などが、そのおもな受入地であった。熱海には、荏原区・大森区や渋谷区の学童が疎開することにされ、主として海岸沿いの旅館十五軒ばかりに分散収容されたが、その数はおよそ二千人ばかりであった。食糧の輸送のために、東京都では二台のトラックをあてたといわれる。
ところが半年ばかりして、彼らはふたたびほかの地方に移動することになったので、終戦時には、集団疎開の学童たちは熱海にはいなかった。
疎開先の写真
当時の海福寺住職である第二十三世瀧澤賢應上人が、「生徒たちの入浴は網代の温泉を利用した」と話していたことをお孫さんである現住職夫人が覚えていました。大森第五小学校の生徒は、別に下多賀和田木の大松旅館・錦花(松)館に疎開していたので同館を利用していたのではないでしょうか。
網代港・初島の機銃掃射
昭和二十年七月三十日の米軍機による網代港への機銃掃射により、網代小学校(令和3年3月閉校)に撃ち込まれた機関砲弾が残されています。
このページに関するお問い合わせ
教育委員会 生涯学習課 網代公民館 歴史資料管理室
〒413-8550 熱海市中央町1-1
電話:0557-48-7100ファクス:0557-48-7100
お問い合わせは専用フォームをご利用ください。