第40話 戦時下の熱海

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ページ番号1013053  更新日 令和4年10月14日

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あたみ歴史こぼれ話(本編)

「あたみ歴史こぼれ話」第40話 戦時下の熱海
「あたみ歴史こぼれ話」第40話 戦時下の熱海 (2022年)8月号掲載


※広報あたみの原本をご覧になりたい場合は、
以下のリンク先からご覧下さい。

あたみ歴史こぼれ話―本編の後に

このコーナーでは、「あたみ歴史こぼれ話」で
掲載しきれなかったことを中心にご紹介します。
本編を読み進んだ後に、ご覧ください。

※このページで掲載されている画像は、閲覧のみ可能といたします。
 画像の保存、複製及び使用は禁止いたします

 

 

東京からの学童疎開

 将兵・傷病兵の休養地としての熱海には、戦局が進むと知名人たちも疎開してきましたが、そのほかにも東京からの学童の疎開を受け入れました。

 そんな東京からの学童疎開について、『熱海市史』(下巻)第五篇に記述があるので紹介します。

東京からの学童疎開

 戦争の末期になると、熱海にはさらに別の集団が疎開してきた。昭和十九年六月に決定された東京の学童疎開計画によると、学童疎開の割当数では、静岡県は長野県についで第二位を占め、およそ二万五千名を受け入れることになっており、伊東・修善寺・長岡・沼津などが、そのおもな受入地であった。熱海には、荏原区・大森区や渋谷区の学童が疎開することにされ、主として海岸沿いの旅館十五軒ばかりに分散収容されたが、その数はおよそ二千人ばかりであった。食糧の輸送のために、東京都では二台のトラックをあてたといわれる。

 ところが半年ばかりして、彼らはふたたびほかの地方に移動することになったので、終戦時には、集団疎開の学童たちは熱海にはいなかった。

疎開先の写真

疎開先の写真
大森第五小学校の生徒 (資料提供 熱海市下多賀の海福寺) 

 当時の海福寺住職である第二十三世瀧澤賢應上人が、「生徒たちの入浴は網代の温泉を利用した」と話していたことをお孫さんである現住職夫人が覚えていました。大森第五小学校の生徒は、別に下多賀和田木の大松旅館・錦花(松)館に疎開していたので同館を利用していたのではないでしょうか。

網代港・初島の機銃掃射

網代港・初島の機銃掃射
米軍機から網代小学校に撃ち込まれた機関砲弾の破片 (網代小学校所蔵)

 昭和二十年七月三十日の米軍機による網代港への機銃掃射により、網代小学校(令和3年3月閉校)に撃ち込まれた機関砲弾が残されています。

このページに関するお問い合わせ

教育委員会 生涯学習課 網代公民館 歴史資料管理室
〒413-8550 熱海市中央町1-1
電話:0557-48-7100ファクス:0557-48-7100
お問い合わせは専用フォームをご利用ください。