第42話 大洞台の自然を愛した志賀直哉

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ページ番号1013179  更新日 令和4年12月17日

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あたみ歴史こぼれ話(本編)

「あたみ歴史こぼれ話」第42話 大洞台の自然を愛した志賀直哉
「あたみ歴史こぼれ話」第42話 大洞台の自然を愛した志賀直哉 (2022年)10月号掲載


※広報あたみの原本をご覧になりたい場合は、
以下のリンク先からご覧下さい。

あたみ歴史こぼれ話―本編の後に

このコーナーでは、「あたみ歴史こぼれ話」で
掲載しきれなかったことを中心にご紹介します。
本編を読み進んだ後に、ご覧ください。

※このページで掲載されている画像は、閲覧のみ可能といたします。
 画像の保存、複製及び使用は禁止いたします

 

 

小林米男執筆「志賀直哉と熱海」より

 

 大洞台に居を構えた志賀直哉については、郷土資料研究家である小林米男氏が『デーリー熱海』の熱海文学散歩欄に毎週日曜日掲載していた「志賀直哉と熱海」の中から「熱海雑談」と「広津和郎とのこと」を紹介します。

「熱海雑談」

 熱海市役所は昭和二十五年四月十三日の熱海大火で焼失したが、昭和二十八年五月庁舎を新築した。市は庁舎復興落成記念を催し、それを記念して観光手引書「熱海」(発行・熱海市役所、印刷・創藝社米山謙治)を出版した。

 市は、この「熱海」に、当時熱海に在住の文学者や画家などの著名人を一堂に会しての座談会を企画し、広津和郎、吉川英治、福島繁太郎、志賀直哉、田岡典夫の出席を得、それに山形文雄市長と、座談会の会場となった一望山荘(玉の井別荘)の主人で、当時市議会議員でもあった野田改治氏などにより、熱海の今昔について雑談を交わした。

その座談会の記録を、昭和二十八年版熱海案内所として発行した「熱海」の中に「熱海雑談」として載せた。志賀直哉は、創藝社米山謙治印刷による関係からか、この事については相談を受けていたようであり、日記にも書かれている。

 五月一日 頭重く午前書齋にて晝寝 米山夫人熱海市の座談会の事打合はせに来る 

 五月三日 午後二時市役所の車迎ひに来て熱海小嵐の方の玉の井別館に行く その前筑摩書房の人来て随筆全集に出す事を承知する

市で出すパンフレットに載せる座談会にて広津、吉川英治、福島繁太郎、田岡典夫、山形市長その他なり 割に面白い會だつた。六時過ぎ観光課長に送られて歸る。

 五月四日 米山夫人前日の座談会筆記を持つてくる。

 志賀直哉は、出来上がった「熱海」を見て、「短時間にしては上出来」とこの本を褒めている。この座談会の内容は、その後、筑摩書房発行の随筆全集に収録された。

 

「広津和郎とのこと」

 東京では志賀直哉は世田谷新町、広津和郎は世田谷二丁目で同じ世田谷に住んでおり、家も近かったので頻繁に行き来していた二人であった。しかし、昭和十九年(1944)十一月二十四日、B29の東京大空襲があってから間もなく、広津和郎は熱海に疎開してしまった。それ以後は会う機会もほとんどなかったが、二十二年(1947)九月十八日、大仁ホテルに梅原竜三郎を訪ねての帰り広津宅に寄り、熱海の夜景に魅せられた直哉は、翌月には稲村の大洞台に、東京都世田谷の染物業野口直道氏の別荘を借りることにして、翌年一月十二日に引っ越してきた。志賀も広津も世田谷時代のときのように、お互いに行き来が出来るようになったことを喜んだ。二人の出会いは古く、明治四年頃になるが、最初のうちは二人の関係は余りしっくりしていたとは言えなかった。お互いに親しくなったのは、戦争中同じ世田谷区に住み、始終行き来するようになってからである。二人は顔を合わせれば軍部の悪口を言ったり、政府の無策を罵って話の尽きることがなかったそうである。また、両家合同で頼んだ闇米を分け、自転車で広津家に届け、夜道を帰ってくる途中、手放しで走っていて電柱に激突したことがあったそうである。

 志賀が大洞台に越してきてからは、戦争中の世田谷時代よりも親しみを増したようである。妻と娘の三人で広津家を訪ねたり、広津夫妻が志賀家を訪ねて来たりすることが頻繁に繰り返された。彼の作品「山鳩」に、猟銃をかつぎ、獲物の小鳥を下げて庭先に現れた福田蘭童が、「もう少し撃ってきましょう」と言うのに対し、「それより熱海へ鴨狩りに行こうよ」というところがあるが、これは、広津和郎のところへ麻雀をやりに行こうということである。

 広津和郎は「志賀氏と熱海」という作品の中で「……同じ熱海と云っても志賀さんの大洞台は熱海と湯河原の中間で、私のいるのは熱海の町の中、一日バスが数回往復するだけなのでそれが不便である。徒歩で約一時間二十分ほどかゝる。私も三度ほど歩いたことがあるが、志賀さんは瘻々(しばしば)この間を歩て来る。『今日は歩いて来たよ』と云って私の家に入って来る事もあるし、又帰りに、『歩いて帰ろう』という事もある。私の経験ではその一時間に二十分の徒歩は相当億劫なものであるが、志賀さんは大して億劫ではないらしい。

 健脚も健脚だが志賀さんの足の早さも亦有名である。俗に壮者を凌ぐというが、壮者どころか大概の若者でも志賀さんの足の早さについて行くのは相当骨が折れるだろう。その早い足取で志賀さんはしゃつ、しゃつと歩いてくる……。」と書いてる。

 ほかにも広津和郎が、昭和二十一年尿毒症に冒され、熱海の国立病院に入院したことがあるが、国立病院の院長で、外科医でもある小出策郎博士に大変世話になった。小出博士は戦時中、陸軍中佐だったため、二十三年公職追放のため熱海を去ることになり、同年六月十二日郷里の新潟に帰って行った。そのとき、広津和郎は世話になった小出博士を熱海駅に見送りに行き、その帰りに一軒の骨董屋のショーウインドーに明の赤絵の大皿が飾ってあったのを見て足を止めた。このことについては、広津和郎の作品「志賀直哉と古赤絵」に書かれているが、次週に紹介する。「志賀直哉と古赤絵」には、小出博士の見送りのことなども次のように書かれている。

 「二、三ヶ月前の話である。一昨年私が病気で熱海の国立病院に入院中大変世話になった、といふよりもこの博士にめぐり逢ったがためにあぶない命を助けて貰ったとまで感謝してゐる院長の小出博士がパージされて熱海を去って行く事になったので、私は駅まで見送りに行った。この院長は私が感謝してゐるばかりではなく、熱海で非常に評判の好い博士であったが、軍医中佐であったために追放になったのである。熱海市民はそれを非常に惜しみ、公会堂で送別会かたがた院長を慰める会を開いたりしたが、恐らくこんなに人人に別れを惜しまれ、こんなに盛大に見送りを受けた被追放者といふものは、日本中に他に例がないのではなかろうか。軍医中佐であったといふ事がパージの理由ださうであるが、こんなに市民に惜しまれる徳の高い名医でも、軍医であったといふために追放されなければならないのであろうか……」と。

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