第45話 網代温泉の始まりと人工海水浴場

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ページ番号1013353  更新日 令和5年1月31日

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あたみ歴史こぼれ話(本編)

「あたみ歴史こぼれ話」第45話 網代温泉の始まりと人工海水浴場
「あたみ歴史こぼれ話」第45話 網代温泉の始まりと人工海水浴場 (2023年)1月号掲載


※広報あたみの原本をご覧になりたい場合は、
以下のリンク先からご覧下さい。

あたみ歴史こぼれ話―本編の後に

このコーナーでは、「あたみ歴史こぼれ話」で
掲載しきれなかったことを中心にご紹介します。
本編を読み進んだ後に、ご覧ください。

※このページで掲載されている画像は、閲覧のみ可能といたします。
 画像の保存、複製及び使用は禁止いたします

 

 

温泉湧出発祥の沿革

 

 網代温泉の始まりは、昭和12年春に武井覚太郎氏の温泉試掘が成功したことにより、温泉地として発展しましたが、昭和12年12月号の雑誌『冬柏』には与謝野晶子が「多賀の湯」と題した40首近いう歌が掲載されました。そこで、昭和12年当時すでに多賀(南熱海)に温泉を利用した宿が存在したのではないかと考え調べてみました。その結果、昭和47年11月30日に発行された『郷土多賀村史』(著者 大高吟之助)には、このように記載されていましたので紹介します。

 温泉湧出発祥の沿革

 大正年代の初期国鉄の前身鉄道院では、丹那トンネル(七、八〇〇メートル)を開通して、東海道本線の御殿場廻りを廃して熱海廻りの案をたて、十一キロの距離の短縮と、勾配の緩和とによって速度の増加をはかり、輸送力の増強を企てた。大正七年(一九一八)四月一日丹那トンネル工事がはじまり、熱海は俄然忙しくなった。これに基いて熱海を起点として伊豆循環鉄道を企画し、その第一着手として熱海・伊東間の伊東線建設の構想をたてた。この計画を逸早く聞き知った東京の医師佐野内科医院長佐野彪太氏は、早晩開発される土地として小山和田木に目を注ぎ適当な土地を物色した。縁あって小山の海岸沿いの一小区を買い求めたが、面積が狭いので隣接する土地の購入を交渉した。この土地は地元のお寺富西寺の所有地であったので、熱心にお寺の世話人達に懇請し、遂に同意を得てその土地の購入に成功した。

 熱海線の工事は大正四年度より始まったので、近いうちに熱海まで鉄道が敷かれ列車の発着するのは年月の問題で、その時期は刻一刻と迫っている。佐野氏はこの土地を利用して温泉試掘を志し、大学教授や地質学者に天城火山系の地質地層の構造を尋ね、この多賀に温泉の湧出する可能性のあるや否やを研究するよう依頼した。学者の説明はこの地は熱海と同じ地質であるので、温泉湧出は可能性のある結論を伝えてくれた。

 古来この和田木地区の地名に、区の南西部に当る処に湯ヶ洞という処がある。誰が名附けたか昔からの地名で湯を暗示した伝承で、又小山海岸の突端には「湯ノ根」と称する岩根があり昔から此の辺の海から湯が湧きでていると云い伝えられていた。斯様な諸情勢に力を得た佐野氏は温泉試掘の情熱を計画の段階から実行へと進ませてきた。その当時の温泉の掘鑿機械は幼稚なもので、高櫓の上で二人の男がバネを利用して、音頭勇ましく突いたもので、終日の作業は並大抵ではなかった。動力を用いず凡て人力であったので工程は捗らず案外と長くかかった。大正十三年に至って低温ながら待望の温泉湧出を見たので、関係者一同は狂喜して成功を祝し会った。

 後年武井氏の源泉試掘の大成功には町をあげてその功績を讃えておるが、これは寧ろ佐野氏の試掘こそ町民から祝福賞賛されるべきもので、処女地に鑿を入れた勇断と明知が湯の湧出の可能性を実証し、後より続く事業家に源泉試掘の動機を与え、南熱海温泉の今日の繁栄を齎したものである。

 年代は変わり昭和二年に至って、この湯を利用して浴場を造ることを考えた佐野氏は銭湯を初め土地の人々を喜ばせた。昭和四年頃には銭湯の傍らに小さな旅館を建て旅行く人々の一夜の住まいとした。和田木には昔から清水屋というこの村唯一軒の旅人宿があったが、温泉を利用する旅館は初めてで、その名も「さのや」と称した、温泉旅館第一号として記念すべきである。

昭和十二年春実業家武井覚太郎氏は、大繩海岸附近に大々的な温泉試掘を初め、遂に十三年八月上旬に至り、深度千五百尺の地点に達したところ僥倖にも高温の温脈に当り摂氏六十度以上という熱湯の噴出をみた。湯量は一昼夜に一千石という比類ない湧出に成功した。これによって和田木地区は一躍世人注目の的となり、社会的にも文化的にも又経済的にも、この和田木地区の社会構造は一変し、農村和田木から都市的和田木へと一大変貌してきた。

 現在で源泉の発掘に遂年成功して、源泉二十四(内八口休)十六口が使用され、温泉旅館二十六軒(和田木・小山にて)二百五十人以上の大旅館から中・小旅館で二千人以上の旅客の収容を誇る温泉となった。尚将来温泉の発掘の可能性もあり、温泉旅館組合が結成され、多賀地区の開発のため自主性をもたしむる意味で昭和三十年十二月には熱海温泉組合より独立して、その名を南熱海温泉組合と名附けて発足した。又多賀地区温泉郷開発のため、旅館組合と相俟って観光協会も熱海から分離して南熱海温泉観光協会として、多賀地区観光宣伝に専念し、今後の活動が期待されている。

 

南熱海温泉旅館名一覧(昭和四十五年調)

静洋閣・金星館・網代温泉ホテル・網代温泉ホテル新館・網代第一ホテル・網代観光ホテル・大成館・大松館・大松館新館・ホテル大和・うすづき荘・山恵閣・佐々家・鈴由館・南海荘・さのや・一龍館・海神荘・芳泉荘・ホテル松風苑・大浜館・長浜苑・三晃荘・観漁荘白石・赤根釣堀・ロッヂ成毛

以上二十六軒

「さのや」上棟式

「さのや」
「さのや」上棟式 (熱海市立図書館 所蔵) 

このページに関するお問い合わせ

教育委員会 生涯学習課 網代公民館 歴史資料管理室
〒413-8550 熱海市中央町1-1
電話:0557-48-7100ファクス:0557-48-7100
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