新 お宮の松誕生記

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ページ番号1001253  更新日 平成29年3月16日

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写真:お宮の松

二代目お宮の松誕生には、色々な方々が関わっていますが、その関係者の方々の中でも特に、印象に残る方の逸話などを記したものです。

板倉 包二

この誕生記は、1968年(昭和43年)11月13日から10回に渡り「東海民報」に連載したものである。

1.やまたねざくら

11月17日 新お宮の松誕生の日である。
今年で2年目を迎えたわけだが、その植樹祭は、松が最もつきやすい季節を選び、熱海にゆかりの深い17日に決まったのである。
初代のお宮の松の葉の色つやが悪くなったのは、その前の春頃からで、二代目お宮の松は、当時から物色されていた。次の松が植えられる迄に、何とか説明の必要があった。
そこで「長い間、皆様に愛され親しまれて参りました私も、車の排気ガスにおかされたり、足元を自動車事故で傷つけられたり、残り少ない命になりました。
近いうちに、この先の海側緑地帯に、私の娘を植えていただくことになりました。その節は、私同様二代目お宮の松として、ごひいき下さいますようお願いいたします。
お宮の松」と、松に独白させたのもこの頃のことであった。
この立て札は、観光客にかなり受けたようであった。
丁度その頃、小沢 陸蔵さん(当時 市議会観光民生委員長)から「山種別荘で二代目お宮の松を寄付してくれると言うから見に行ってはどうか」という話があった。よく聞いてみると「輸送費もかかることだろうから50万円つけてやる」ということで、50万円は既に預かってあるという話に、観光課員一同ソレッ!というわけで福道の山種別荘に押し掛けた。
古風で何とも言えない落ち着きのあるたたずまいの別荘の門を叩いて、案内を請うと、管理人の高野さんが愛想よく迎え、宏大な邸内の塚の上に生い茂っている大木を見せてくれた。
樹齢三百年余のもので、初代お宮の松に劣らない美事な枝振りである。丁度まんじゅう塚の様な丘の上に生えているので、根回しも楽だし、近場で移植にも便利だということで一同一目で惚れこんでしまった。
そうして植正さん(熱海造園社長)、山田さん(当時 熱海造園組合長)、森脇先生(東京都公園協会常務理事・前東京都公園部長)の応援も借りて、移植案を練ったところ根鉢を含めた松の推定重量が三人三様で、森脇先生は確実な活着を見込めば72トン、山田さんは38トン、植正さんは「俺なら27トンで立派に着けてみせる。」と自信を持っての鑑定であった。
しかし、いずれにしても輸送順路である来の宮ガードをくぐらせるのには、枝を払わなければ、この三百年の大物を運ぶことは出来ないという点は一致していた。
枝を払ってしまっては、折角の名木も台無しになり、お宮の松に不向きなものになってしまう。
念のため日通の重量部門を、東京から招いて相談をしてみた。日通の担当者(足達課長、井上技師)の話では、陸上輸送は、重量の方は300トン迄は引き受けるが、枝はやっぱりせん除するほかはなく、ヘリコプターによる空輸は最高2.2トンまで、これは自衛隊に依頼しても見込みはないと言うことであった。
そこで迂回作戦案も出て、十国峠伊豆箱根有料道路経由、湯河原まわりをも考えてみたが、これも峠を下って奥湯河原へ出てから人家や別荘の門柱、垣根などを傷めるばかりか第一、東電の配線を切断しなければならなくなるので、これも駄目という結論になって、張り切った観光課員も、ことここに及んでは、さじを投げざるを得ないことになった。
遂に、山種別荘の松はあきらめることになったが、二代目お宮の松探しは寧日なく続いた。随分広い範囲に渡って、そのかず数十箇所にも及んだ。
新聞報道が全国に行き渡ったため、八王子の井上 幾太郎さん、愛知県弥富町の服部才一さん、埼玉県岡部町の秋山 朝久さん等遠方の篤志家も現れ、熱海へ旅行した際お宮の松の下で拾った松かさの種から育てたものだから、二代目お宮の松に使ってくれとか、樹齢三百年の家宝の松をお譲りしますという寄進の申し出もあったし、近郷では伊豆山、小磯 秀吉さんの畑の畦に生立するもの、初島東海岸に在る松、湯河原駅前の菅沼さん(町議)のお宅の門かぶり松、小田原在二宮、善波さんの庭前のものが出色の様に思えた。
伊豆山樋口ホテル園内にいいのがあるというので見せて貰ったが、採納見合わせになったので、樋口さんから「ひとの家のものを見ておきながら取り止めにするとは失礼な、大事な娘を傷ものにする気か」といって、大変叱られたことを覚えている。
最後に、熱海ホテル(国際興業株式会社社長 小島 忠氏)の園内に、枝ぶり美事な松を発見した。真夏の炎天下、東西かけめぐってこの松を見染めたもので、長い間選定に苦慮した市川市長も「よし、これだ!」と断を下したものである。
さて、こうして二代目も漸く決まったので、今度は山種別荘から預かった例の50万円の始末をつけなければならない。そこで小沢さん(観光民生委員長)、出田さん(副議長 山田 利吉氏)と同道して、日本橋蛎殻町の山種ビル内、山種証券株式会社に山崎 種二社長を訪ね、社長応接室で社長の現れないうちに、私は、毛糸の腹巻の中に蔵っておいた50万円の紙包みを卓上に取り出しておき、3人で口を揃えて「社長!二代目お宮の松について、格別のご配慮をいただきましたが、別邸の松が余りに大きすぎて輸送のすべがありませんので、折角の有り難い思召しを頂戴することが出来ません。ついてはお預かり中の50万円も頂くわけに参りませんので、お返しに上がりました。」と口上を述べたところ、小柄ですっきりした山崎社長は「君!男が一旦出したものを今更受け取れるもんかい、何か熱海の役に立つことに使ってくれたまえ」とおっしゃる。
私どもは、顔を見合わせた…。なんと歯切れのいいセリフもあるものかと打たれた思いである。
この気前の良さに、私どもは集めては散じ、集めては散じる大実業家の片鱗を見た思いをかみしめながら外へ出た。すっかり有頂天になった小沢さんに、帝国ホテルで御馳走になったのはこの時である。
その後しばらくしてからのことであるが、私は、折角くださる松が貰えなかったお詫びのつもりで「松が貰えなかったので、何か記念に別荘にある植木を一本頂戴したい」と、社長に甘えてみた。
実は私は、松の下見に度々別荘へ足を運んでいる間に、うすもも色の花で、はなびらの下に小さい提灯のような芯が吊り下がった桜(ひ寒桜)のあどけなさが馬鹿に気に入ってこれを欲しがったのである。
私は、この桜の花名を勝手に山種別荘の「ちょうちん桜」と命名して、課員との会話には、ちょうちん桜、提灯桜と呼んでいた。度々この呼名を乱用するものだから園芸出の三宅君あたりから「課長!ちょうちん桜はいけません、ひ寒桜と呼んで下さいよ」などとたしなめられたものである。
それでも私は、その方がしっくり来るので、ちょうちん桜で通して来た。
その提灯ざくらを、私はねらったのである。山崎社長にしてみれば、50万円は貰われてしまったあげく桜までねだられるのだからいい面の皮である。あつかましい手合いに出会わしたものだと思われても仕方のないところだが、そこは粋人「桜が欲しければ持って行くがいい、梅もいいのがあるから持って行け」という話。
梅は、他所にもあるから…と思ったのであるが、こうなると遠慮するわけに行かなくなって、ついでにありがたく頂戴することになってしまった次第である。
そうして一昨年11月17日、新お宮の松誕生祭の節、この桜と梅をお宮の松の両袖にあしらうことになった。
松の右側(西側)に植え込んであるのが、その桜である。春ともなればこの桜は、うすもも色にほころびて、遊覧客や通行人の目を楽しませてくれる。
私は、毎日通勤の途次、この桜を見守りながら楽しい思い出にふけっている。「これからは、この桜を"やまたね桜"と呼ぶことにしよう。」

2.本多大四郎という男

新お宮の松が前節に記したように、あれこれ探しまわったあげく、ようやく熱海ホテル庭園内のものに白羽の矢を立て、支配人の石黒さんや東京本社の竹沢課長のとりなしで小島社長の快諾を得て、これを二代目お宮の松に仕立てることに決まったが、更に添え松が欲しいということになった。今度は、添え松さがしが始まるのである。
これもまた東西諸方を探しまわったが、適当なものが見当たらないので、小田原の植木屋を見に出かけた。2~3見て回ったが植木屋にも格好なものがなかったので引き上げることにして、小田原久野の小路(こうじ)を引き返してきたところ、途中の空き地に数十本の松の苗木を植えた一反歩近い苗場が目についた。バラ線をくぐって勝手にひとの園地に踏み込んで、あれこれ品定めをし、歩いてようやく手頃なものを見つけ出した。
ところが、所有者がわからない。付近の人に尋ねてみたら小田原市立病院付近の豪農が撫育しているものであることがわかった。早速それらしい家を尋ね当てて、お宮の松の添え松に譲り受けたい旨を願い入れた。すると、奥座敷から55~6とおぼしいこの家のあるじが出てきて曰くには「わしは植木屋じゃあない、だから植木は一本でも売るわけにはゆかない、ただしだ、めくら同様のわしが手さぐりで育てた松が、ひとさんの目にとまったとなれば嬉しい話だ。貰い方によっては呉れないものでもない、貰い方を考えてこい。」という。気難しい人と見て取って改めて出直すこととした。
日を改めてまた訪ねると「わしんとこは田地が何町歩、みかん畑が何町歩、伐期の桧林が、二十町歩あるから喰うにゃあ困らない。松が欲しければ譲ってもいい…」と盛んに自慢話を聞かされるだけで、一向に売るでもなければくれるでもない、断るでもない。
数回この家を訪ねたが、行く度に同じ様な挨拶で話がはかどらないものだから、同行の三宅君は顔をしかめて「来るたんびにお談議を聞かされるばかりでくれるでもない、断るでもない、馬鹿馬鹿しいからやめましょう」と言い出した。
私もそう思った。しかしもう一押しと思って頼んでみた。そうしたらようやく無償で寄付してくれることになったので、日取りを約束して人夫を揃えて係の者を貰いにやった。
ところがである。
今度は「俺がせっかく大事に育てた松を貰いに来るのに若い者を使いによこした」というのが気に入らない様子で、まだ、ごねているというのである。使いに行った三宅君がやっきりして引き返して来て「とても私じゃあ手に負えないから一緒に行ってくれ」という。
それではということで急いで久野へ出向いた。
そうして、もう馴染みになった難しやのおやじに、やあ!と挨拶すると「おお、お前が来たか、これで俺も気が晴れた、俺はお前が気に入った、お前なら気前よくくれてやろう、松は持って行け。だが一つ注文がある、熱海と小田原の縁つなぎに小田原市役所前から、俺の松を、市長に見送らせてやってくれ」という話なので、小田原市役所へ出向いたところ、かねてから心安い曽我助役が「彼の人は、形式のやかましい人で私も経験がある、苦心のほどお察しします、私も一緒に行って、先方の気に添うようにしてあげましょう」というこどで、わざわざ久野の本多家まで同道して下さった。
そうして二人顔を揃えて、その処で見送ったことにして貰った。曽我助役は、公務御多用な方なので、そこでお引き取り願った。
それからすぐ職人衆を苗圃へ向け、私はおやじを相手に、下げて行った菊正宗を開け、家人留守中のこの家で祝盃をあげた。酔いもまわってきたので、私は覚束ない謡曲高砂の子謡を一曲うなって、めでたく添え松貰い受けの儀を済ませた。おやじは満悦の体で感慨めいたものを隠し切れず、目をしばだたいている様子であった。
そこへ先刻、苗場へ松の宰領に向かった職人衆が立ち寄ったので、屋敷の石門の前で記念写真をとって引き上げた。おやじ、上機嫌で手を振って見送っていた。
このむずかしやのおやじこそ本多大四郎と呼ぶ男である。
私は、この記録を物語化するため「本多大四郎という男」という見出しを付けたり「おやじ」などという呼び方をして来たが、本多さんは、久野の豪農の総領に生まれたのであって、軍隊で目を傷め視力は0.1の由である。
この目の悪い本多さんが、手さぐりで愛育した松を、いりくんだ道を経て貰い受けたわけである。
新お宮の松の根元左側(東側)に添え松として、はすに植込まれ、お宮の松を引き立てているのがそれである。

3.成駒屋さんの気風

二代目お宮の松も決定していよいよ記念行事の誕生祭を執り行うことになった。
誕生祭の企画は、各紙が大きく取り上げてくれたので、市民の感心もかなり高まったようである。
そのうち成駒屋の石川将英さんが西村さん(照成駒)を従えて観光課へ乗り込んできた。「新お宮の松誕生祭には、大パレードをやるそうだが、成駒一門の芸妓を参加させて、協力したいから企画の中に取り入れてくれ。衣装、かつら小道具一切は、松竹衣裳部から取り寄せる。顔師は、特に京都一流の小山幸次を呼び寄せるから、市長以下各界代表名士にも化粧することの了解を得てくれ。
市川市長は、岡崎の出身で家康公の崇拝者だと聞いているし、風貌が家康にぴったり似合うから、是非、徳川家康に扮してくれるよう頼む。
「経費は、2百万ぐらい覚悟している」という話。私は、嬉しい話だと思った。
熱海の象徴お宮の松の誕生祭に市民の皆さんからこんな協力の申し出のあったことは、ほんとに有り難いことだと思った。
しかし、熱海市長ともあろうものが、役者まがいに塗りたてて行列の先頭に立つことは、市長の権威をそこねはしないかと心配する向きもあったので、念のため市長の意中を伺ってみた。市長も野暮はいわない。
「わしも市川だ、団十郎の真似事ぐらいはやって見せる」という返事。この言葉に力を得て、企画は順調に進んだ。そうして西島助役、谷口収入役を奉行様に、岩井議長、小沢委員長、観光協会長、旅館組合長をそれぞれ大老、老中、若年寄りに仕立て、各界代表名士達にも裃を着け、幕府重臣の一役を買って貰うことにした。
そのあとに成駒一門のきれいどころが松組、竹組、梅組に分かれ、芸妓鳶、京舞子、伊達と、いなせないでたち、みやびやかな装いに扮し、ひときわ目を引く貫一・お宮のコンビに続いて、熱海芸妓組合選抜百余名の「阿波踊り姿」、底抜屋台、関東とび総連合の一隊、旅組代表数十名、そろいのゆかた熱海婦人会の数十名、列尾に松の寄贈者熱海ホテル従業員代表十余名が松の見送りに加わり、自衛隊音楽隊を先頭とする数百名の大パレードが市中を行進することに決まった。
観光係の佐久間君が、持ち前のアイディアを惜しみなく発揮したのもこの時である。
いよいよ、11月17日の当日が来た。
成駒屋を楽屋にあてて、すっかり準備を整えた一行が熱海ホテル前を出発した。将に、絢爛豪華なパレードである。
当日は、しぐれ模様であったので気づかってはいたが、行列が東海岸町にさしかかった頃、とうとう降りだしてしまった。急きょ市中行進の予定を変更して、銀座角を左折して東駐車場に集合し、雨中、新お宮の松の植樹式と、初代お宮の松ののこ入れ式を行なった。
一方は、神事でおごそかに行い、一方は、仏式でしめやかに取り行なった。
傘を手に見物の群衆も混雑していたが、天気にさえ恵まれれば全市民に披露出来たことであろうに惜しいことであった。
この大行事の総指揮をとった石村さん(当時観光民生部長)もがっかりであった。
網代測候所の調べによれば過去十年間、11月17日は一度も雨が降ったことがないという太鼓判であったのに、皮肉なものである。
貫一の恨みの涙雨だという人がいた。全くそんな天気であった。

それにしても、この行事をここまで盛り上げてくれた成駒屋 石川将英さんに改めて御礼を申し上げたい。
なお、芸妓組合代表 分君の家(下山奈美子)、磯むら(磯村寿ず子)、花の家(中島八千代)、隆の家(高橋よし子)の愉快な皆さんもスクラムを組み、総動員体制でこの行事に協力してくれたその御好意に感謝の外はない。
また、これとは別に、初代お宮の松ののこ入れ式の「読経の場」を、進んで引き受けて下さった熱海宗教会の住職さん方の御厚情も、長く忘れてはならないと思っている。

4.岡本幸次郎さんの心意気

成駒屋さんが観光課へ見えた後間もなく、熱海とび職組合長の岡本幸次郎さんがやって来た。「二代目お宮の松の誕生祭には、熱海のとび職一同は勿論、関東とび総連会代表2百名を参加させろ、威勢のいい木遣りで祝いたい。」ということである。
あでやかな熱海芸妓連の集団の中に勇み肌のとびの者2百名が揃いのはんてんで加わった行列は、うってつけの配合だと思って早速お願いすることにした。
当日、この一群に参加を願って熱海ホテル下から行進に移り、いよいよ二代目お宮の松が、車から吊り下ろされて植え込まれる際、のどに自慢の連中十余名に胸のすく木遣りを合唱して貰ったが、何とも言えないものであった。
この中には、日本一の木遣りの名手もいたということである。私は、この岡本さんの話を聞いた際、すっかり近代化した白亜の町熱海にも、まだ江戸っ子気質のとびの心意気を持った人がいることを、ほほえましく思った。岡本さん有難う。

5.藤間むらさきの顔

誕生祭にいろどりを添えるため「金色夜叉」に、貫一お宮で出演した俳優を招くことにした。松竹に出向いて、この話を持ちかけたところ応対に出た横山さんが、事務所の壁にいっぱい掲げた松竹名優の写真を指差して、どれでもごぼう抜きにしろといってくれる。
いくら俳優の府だからといって、ごぼう抜きでよい…は、一寸話が大きすぎると思ったが、いよいよとなれば藤間 紫師匠を持ち出して、力を借りるあてがあったかららしい。(横山さんは、藤間紫のマネージャーだったから。)
結局、藤間紫さんのきもいりで、最近のテレビ「金色夜叉」の出演者、高須賀不二子と勝呂誉を出向かせて貰うことになった。
いよいよ、誕生祭の当日は、植え込む二代目お宮の松の根の底に、白布を巻いた初代お宮の松の枝ひと節と、名作「金色夜叉」の初版を納めた銅製の小箱埋蔵の場の実演を、このコンビに演って貰ったものである。
この誕生祭に寄せられたメッセージは、豪華なものである。
「老い松に拍手を送り、若松にかぎりなき夢をたくす」…藤間紫、藤間勘十郎をはじめ、松竹陣から水谷八重子、大川橋蔵、辰巳柳太郎、伊志井寛、日活陣から石原裕次郎、吉永小百合、東宝陣から新玉三千代、加賀まり子、そのほか飯田蝶子、舟木一夫等等当代一流のスター名優巨匠20余名に及んだ。
この外「新お宮の松の誕生おめでとう…読売巨人軍 長嶋茂雄」「新お宮の松が熱海の繁栄のホームランとなることを…王貞治」
歌舞伎から尾上松緑、守田勘弥、実川延若等のメッセージが一段と趣を加えたが、これは歌舞伎(しばい)通の辰成駒、辰弥姐さんの骨折りだったのであった。
辰弥姐さんの腕もさることながら、藤間紫さんの芸能界にきく顔の大きさに驚くほかない。しかし、これというのも桃山の高台にお住まいの紫さんの母堂(河野孝さん)から娘にあてた「郷土のために出来るだけ骨を折っておあげなさい」の一声がそうさせたのであろう。お母さんお礼を申し上げます。

6.尾崎紅葉先生の系図

尾崎紅葉先生の名作「金色夜叉」は、明治30年1月1日から6年間に亙り読売新聞に連載され、その人気は一世を風靡した。
この作のクライマックス
「ああ宮さん、こうして二人が一緒にいるのも今夜限りだ。お前が僕の介抱をしてくれるのも今夜限り、僕がお前にものを言うのも今夜限りだよ。1月の17日、宮さん、よく覚えてお置き。来年の今月今夜は、貫一は何処でこの月を見るのだか!再来年の今月今夜…十年後の今月今夜…一生を通じて、僕は、今月今夜を忘れん忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ、可いか、宮さん」1月の17日だ。来年の今月今夜になったらば、僕の涙で必ず月は曇らせて見せるから、月が…月が曇ったら、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで今夜のように泣いていると思ってくれ…」
の名場面が熱海の海岸であったため、小説金色夜叉と共に熱海の名声がいやが上にも上がったことは、熱海人なら誰でも知ってのことである。
その熱海の恩人 尾崎紅葉先生の遺徳をしのんで、毎年1月17日に「紅葉祭」が行われ尾崎家のご遺族として
尾崎豊乃さん、杉山弥生さん、杉山美枝子さん、横尾石夫さん、横尾三千代さんが出席されるが、一般にはその続柄がよくわからない。
一昨年(昭和41年、まだ初代お宮の松の頃)1月17日つるやホテルに於いて、図書館長の浜田さん司会のもとに「尾崎紅葉をしのぶ座談会」を催した際、ご遺族の代表として挨拶された横尾石夫氏(会社役員、元海軍少将)のお話の中から、その続柄をまとめてみると、次の通りになる。
(尾崎家系図)
尾崎紅葉(本名 徳太郎)夫人菊子
長女 藤枝(年少にて死亡)
次女 弥生(杉山姓)…その長女 美枝子(影山姓)
次女 澄子(井上姓)、長男 浩一(杉山姓)
長男 夏彦(東大美学卒、三十半ばにて死亡)夫人 豊乃(菊池幽芳令嬢)…その長男 直衛、次男 伊策
参女 三千代(横尾姓)夫 石夫(会社重役、元海軍少将、紅葉伯母嫁入り先 横尾平太氏の養子)
「紅葉祭の歴史」と題する論壇の中で、元市長 故宗秋月氏は、こう言っている。
「お互いにこの土地に住まいし、この土地と共にあり、土地と共に生活する以上その土地を愛し、その土地の繁栄と発展のために祈り、かつ能う限りの情熱と努力を捧げなくてはならない義務を負っている筈である。
愛するに価する土地、祈るに価する土地、その情熱をたぎらすためには、その土地を知り、その土地の魅力に陶酔しない限り湧き出るものではないのである」と。
味わうべき言葉であると思う。

7.金色夜叉上演しらべ

熱海にゆかりの深い「金色夜叉」は、映画、演劇にしばしば上演されているが、何時から始められ、何回くらい演っているのだろう。
松竹大谷図書館から得た資料で拾ったところによると、明治31年3月、市村座に於いて藤沢浅次郎(貫一)、河村永(お宮)が演じたのが最初である。
小説「金色夜叉」が読売新聞に連載されたのは、明治30年1月1日からであるから、その翌年すぐに劇化されたわけである。当時の人気の程がここからも想像される。
以来、昭和39年までの約70年間に39回上演されておるから、松竹だけでも2年に1回上演されていることになる。
いずれも新派であるが、貫一役を藤沢浅次郎(2回)、伊井容峰(4回)、井上正夫(2回)、梅島昇(6回)、沢田正二郎(1回)、花柳章太郎(4回)、伊志井寛(5回)、森雅之(3回)で
お宮役は水谷八重子(十二回)、花柳章太郎(五回)等であるから、花柳は、貫一役と併せて9回ということになる。
一方、松竹映画の方は、大正7年4月12日藤野秀夫と衣笠貞之助のコンビで封切られて以来、昭和29年までの36年間に17回繰り返されている。
こうしてみると、映画も2年に1本くらいの割りで製作されている勘定である。
林長二郎(長谷川一夫)―田中絹代、高田稔―佐久間良子
鈴木伝明―山田五十鈴、上原謙―轟夕起子
根上淳―山本富士子のコンビがそれぞれその時代の人気を博して来た。
将来も不朽の名作「金色夜叉」の上演は、しばしば繰り返されるだろう。

おわり

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