明治時代
貫一とお宮の悲恋の物語(金色夜叉)
尾崎紅葉の名作「金色夜叉」は、今から約100年前、明治30年(1897年)から明治35年(1902年)まで、読売新聞に掲載されました。その小説が、爆発的な人気を呼び、熱海の名が全国に知れ渡りました。明治36年(1903年)に尾崎紅葉が36歳の若さで亡くなったため、金色夜叉は未完に終わりましたが、貫一とお宮の物語は演歌となり、バイオリンの伴奏にのって日本中に広まっていきました。
熱海の海岸近くにある緑地沿いには、別離のシーンで有名な、「お宮の松」があり、その側には、貫一・お宮の像も建っています。像の前に建つと、オルゴールから、貫一・お宮の物語の演歌が流れてきます。
皇室とのゆかりもあり、癒しの地として名高い熱海(熱海御用邸・熱海梅園)
3代将軍徳川家光公が建てた御殿跡は明治維新後「村受公有地」となり、その地を明治11年(1878年)三菱の岩崎彌太郎が買い上げ、大部分を明治16年に宮内省に提供しました。宮内省は周辺地も編入し、健康のすぐれなかった皇太子(後の大正天皇)ご避寒のための御用邸建設を着工、明治21年12月、「熱海御用邸」が竣工されました。御用邸としては横浜・神戸に次ぐ三番目ですが、温泉地としては一番早く建立されました。
明治22年1月には、竣工したばかりの御用邸に当時10歳の皇太子(後の大正天皇)が来られました。それを始まりとして、その後も毎年1月から3月にかけて御用邸に入るのを常とされました。
御用邸は昭和6年に熱海町に払い下げられ、現在は当時の建物はなく市役所が建っています。御殿地であった名残は、敷地内にある「御殿稲荷」の名に残っています。
日本一早い早咲きの梅と日本一遅い紅葉が楽しめる1万坪の熱海梅園は、明治19年(1886年)に完成しました。もともとは、前年に開設された国内初温泉療養施設、「噏滊館(きゅうきかん)」に併せた遊歩公園でしたが、当時内務省の衛生局長であった長与専斎が「病気は薬だけではなく、緑の中で適度な運動をして、身も心も治療してこそ効果があがる」という信念のもとに、横浜の豪商・茂木惣兵衛に協力を仰ぎ、梅園の造成に乗り出したのがきっかけです。明治21年には噏滊館付属地として献納し、皇室付属地に編入されましたが、昭和10年に熱海町へ払い下げされました。
現在、「献上梅」として、毎年12月、天皇陛下のお誕生日をお祝いするために、この梅園の梅枝を宮内庁にお届けしています。
また、梅園は平成21年にリニューアルされ梅の木も新たに植樹され、糸川遊歩道のあたみ桜と共に、早春の熱海をピンク色に染め、多くの来遊客で賑わいを見せています。
熱海御用邸
熱海は江戸時代には将軍家の別荘があり、早くから温泉保養地として開けていました。熱海御用邸は皇太子嘉仁親王のために、最も早く宮内省によって造営された御用邸です。
明治16年に三菱合資会社より敷地の献納があり、また個人の所有地を買収し、面積3300余坪の御用邸地が整備されました。
21年9月に御殿の造営を起工し、翌22年6月に竣工しています。建物は和風木造二階建、一部平家建、御車寄、受付、御座所、各事務室、女官部屋並びに調理所などからなっていました。
御用邸は昭和6年に廃止となり、御用邸地は熱海町(現・熱海市)とそのほかに払い下げられました。現在の熱海市役所は御用邸地の一部分に建っています。
払い下げられた御用邸御殿は、1階が裁判所、2階が図書館として使われました。
昭和41年3月、御用邸御殿は撤去され、5月25日に文化会館建設工事着工、翌42年に完成しました。(現・熱海市役所第3庁舎)
(参考文献:皇室建築 内匠寮の人と作品 鈴木博之 監修 株式会社建築画報社 発行)
日本初期の人車鉄道とSL
明治29年(1896年)、熱海・小田原間の25キロメートルを「豆相人車鉄道」が開通しました。わが国では初期の開通であり、所要時間は4時間ほど人夫が押すという、きわめて原始的なものでした。その駅舎の跡地(現在の咲見町)には、客車を手押ししているレリーフが掲げられています。
人車鉄道が12年間走った後、人力から原始的動力である軽便鉄道に代わり、軌道も従来の610ミリから762ミリに広げられ、蒸気機関車が採用されました。明治40年12月に営業が開始されてから大正12年までの間、熱海小田原間を2時間40分かけて走っていました。
この蒸気機関車の正式名称は「熱海軽便鉄道7機関車」と言い、現在はJR熱海駅の改札を出て右にある商店街前に設置されており、熱海駅を乗降される来遊客の格好のスポットとなっています。
山本光一の熱海八景
明治21年に描かれた山本光一の熱海八景です。
日本の市外電話発祥の地
明治22年(1889年)1月1日、日本で最初に市外電話のための電話回線が設けられたのは、東京~熱海間でした。アメリカのアレクサンダー・グラハムベルが電話機を発明してから、わずか13年後のことです。熱海には多くの政治家や政府高官が保養や会談のために訪れており、東京との連絡をとるために市外電話が敷かれたのです。
現在では、熱海の温泉の起源とも言われている大湯の左手に、明治百年を記念して、わが国初の公衆電話ボックスを模して復元した「六角形の白い公衆電話ボックス」と、「市外電話発祥の地」の碑があります。
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