江戸時代

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ページ番号1001248  更新日 平成29年3月17日

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徳川家康の運命を変えた伊豆権現と熱海の湯

写真:御用汲湯の想像図「熱海の史蹟伝説」より

戦国の乱世が終わり、天下泰平の時代になった江戸時代には、将軍・大名や武士の支配階級から農民・職人・商人などの庶民にいたるまで、温泉に入浴して病気を治す湯治が全国的に盛んになりました。江戸に近い熱海温泉には多くの大名が湯治に訪れており、本陣であった今井家の宿帳には、寛永6年(1629年)から幕末の弘化2年(1845年)までの200年余りの間に、全国の城主65名が来湯した記録が残っています。
特に熱海の温泉を愛した将軍として名高いのは徳川幕府初代将軍・徳川家康公です。
源頼朝を尊敬した家康は「自分もいつかは天下を統一したい」と、頼朝が学び、頼りにしていた伊豆権現(現在の伊豆山神社)の再興に寄与しました。「徳川家康は、関が原の合戦前に熱海に入湯し、その温泉パワーをもらって天下統一を成し遂げた」とも言われています。
また慶長2年(1602年)に熱海に湯治、そして慶長9年(1604年)3月、家康公は義直、頼宣の2人の子どもを連れて、7日間熱海に滞在しました。この年の9月、京都で病気療養中である吉川広家のお見舞いとして熱海のお湯を運ばせました。京都の近くにも名湯があるにも関わらず、わざわざ「熱海の温泉」を運ばせたことからも、家康公がいかに熱海温泉を気に入ったかが窺い知れます。
熱海から江戸城まで温泉を運ばせた「御汲湯」の始まりは、4代将軍家綱公が大湯の温泉を真新しい檜の湯樽に汲み江戸城まで運ばせたのが始まりであり、その後歴代徳川将軍に継承されました。特に8代将軍吉宗は8年間で3643個の湯桶を運ばせています。

写真:湯前神社例大祭(湯汲みレース)

現代では、熱海温泉の守り神・湯前神社の例祭「熱海湯まつり」が行なわれ、2年に1度「湯汲みレース」を開催していました(現在は休止中)。
この行事は熱々の温泉を樽に詰めて徳川将軍に献上した故事にちなむもので、80度の源泉を桶に汲み、約50メートル離れた「江戸城」に見立てた湯樽へ運ぶレースです。
毎回、多くのチームが参加し、制限時間内に運ぶ湯の量を競います。
また、2月と10月には「献湯祭」が行われ、湯汲み道中の様子が再現されています。

写真:昭和56年の湯汲み道中

写真:昭和時代の湯汲みレース

謎に包まれた「首大仏」

写真:福泉寺の首大仏

熱海市泉地区にある福泉寺の境内には、陶製の「首大仏」と呼ばれるお釈迦様が安置されています。胸から頭の上までの高さは約2.5メートルで、その厳然としたお顔立ちも印象的です。
この首大仏の由来は、江戸時代、尾張の徳川光友公の父である義直公が鷹狩りの帰り路でのこと、耳の遠い老婆が行水をしていたそうです。その家の娘が慌てて老婆をタライごと奥へ運び去ったという咄嗟の機転に、義直は感激し、娘に御殿奉公を命じました。やがて娘は光友公を身籠り、月満ちたときに自ら腹を切り誕生させました。後に光友公は自分のために絶命した母の供養をするため、陶製の大仏を作ったそうです。そして時は流れ、この大仏の首だけが福泉寺に寄進されました。胸から下のお姿は今だに謎に包まれていて、興味深いものです。

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