広報あたみで「あたみ歴史こぼれ話」を連載しています。

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ページ番号1007134  更新日 令和2年3月30日

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歴史資料管理室では、令和元年(2019年)5月号の広報あたみより
「あたみ歴史こぼれ話」を連載しています。

熱海市史などの歴史書や古絵図などで語られている歴史の裏の
意外な事実を、毎月分かりやすくご紹介しています。
現在と比べて読み進めると面白いかもしれません。

「あたみ歴史こぼれ話」のバックナンバーを下に掲載しましたので
是非ご覧ください!

※広報あたみの原本をご覧になりたい方は、バックナンバー下の
 リンク先(「広報あたみ」)からご覧ください。

「あたみ歴史こぼれ話」第9話の画像
「あたみ歴史こぼれ話」第9話(令和元年(2020年)1月号掲載)
「あたみ歴史こぼれ話第8話の画像
「あたみ歴史こぼれ話」第8話(令和元年(2019年)12月号掲載)
「あたみ歴史こぼれ話第7話の画像
「あたみ歴史こぼれ話」第7話(令和元年(2019年)11月号掲載)
「あたみ歴史こぼれ話第6話の画像
「あたみ歴史こぼれ話」第6話(令和元年(2019年)10月号掲載)
「あたみ歴史こぼれ話第5話の画像
「あたみ歴史こぼれ話」第5話(令和元年(2019年)9月号掲載)
あたみ歴史こぼれ話第4話の画像
「あたみ歴史こぼれ話」第4話(令和元年(2019年)8月号掲載)
あたみ歴史こぼれ話第3話の画像
「あたみ歴史こぼれ話」第3話(令和元年(2019年)7月号掲載)
あたみ歴史こぼれ話第2話の画像
「あたみ歴史こぼれ話」第2話(令和元年(2019年)6月号掲載)
あたみ歴史こぼれ話第1話の画像
「あたみ歴史こぼれ話」第1話(令和元年(2019年)5月号掲載)

あたみ歴史こぼれ話―本編の後に

このコーナーでは、「あたみ歴史こぼれ話」で
掲載しきれなかったことを中心にご紹介します。
本編を読み進んだ後に、ご覧ください。

※このページで掲載されている画像は、閲覧のみ可能といたします。
 画像の保存、複製及び使用は禁止といたしますのでご遠慮ください。

第9話「桜を植えた恩人たち」

【「熱海三大花木」の恩人―故・大塚実 氏】

 「あたみ歴史こぼれ話」第9話でご紹介したあたみ桜、熱海梅園の梅、
 お宮緑地遊歩道のジャカランダと合わせて「熱海三大花木」と称されています。
 (『広報あたみ令和2年(2020年)2月号』に掲載)
 あたみ歴史こぼれ話でご紹介したのは「桜の恩人」ですが、このページでは
 熱海梅園や遊歩道などの整備にあたり多大なるご支援をくださった、
 「熱海三大花木」の恩人といえる大塚商会の相談役名誉会長を務められた
 故・大塚実氏の功績についてご紹介しましょう。
 (以下参考:『美しい日本の自然を後世に残す』大塚実 著)


【熱海梅園の再生―平成19年3月から平成22年4月】

 明治19年(1886年)4月、茂木惣兵衛の尽力で造成された熱海梅園は、
 開園から100年を経過すると、樹木の老朽化により当時の優美な姿が失われ、
 樹木が密集するうっそうとした景観になっていました。
 平成19年から3年にかけて、紅梅176本、白梅296本の植え替え整備、園内を
 流れる初川を挟んだ紅葉の植栽などの大規模改良工事を行いました。


【あたみ桜による糸川遊歩道の再整備―平成21年11月から平成23年11月】

 糸川沿いの遊歩道には、桜が美しく見られる名所といえる場所でしたが、
 雑木が混在し、桜並木としての景観が損なわれていました。
 そこで平成21年から海と市街地を結ぶ「歩いて楽しめる散策ルート」として
 整備するにあたり、あたみ桜58本を植樹しました。同時に南国の花
 ブーゲンビリアも整備され、初夏を中心に色鮮やかな花が糸川遊歩道を
 彩るようになりました。


【お宮緑地をジャカランダの遊歩道へ―平成24年9月から平成26年6月】

 平成2年、姉妹都市提携の記念にポルトガルのカスカイス市から
 ジャカランダの苗木が寄贈されました。
 平成24年から2年かけて、ジャカランダをお宮緑地に106本植樹すると共に、
 芝生の張替えや新たな草木の植栽などを行い、ジャカランダを楽しめる
 遊歩道の整備を行いました。


大塚実氏の多大なるご支援により、早春の梅からあたみ桜、初夏の
ジャカランダ、ブーゲンビリアと、美しい花や緑が見られるように
整備された熱海。
温泉だけでなく、季節の花も是非お楽しみくださればと思います。

熱海梅園入口の大塚実氏顕彰碑の画像
熱海梅園の入口辺りに建つ大塚実氏の顕彰記念碑
隣には梅園活性化工事完成を記念して植樹された梅の木があります
糸川遊歩道の顕彰記念碑の画像
糸川遊歩道北側(銀座町側)に建つ大塚実氏の顕彰記念碑
糸川に沿ってあたみ桜とブーゲンビリアの花が楽しめるよう
遊歩道が整備されています
お宮緑地の大塚実氏顕彰碑の画像
お宮緑地の入口に建つ大塚実氏の顕彰碑
初夏には青紫色の美しい花を見ながら歩けるように
緑地内には歩道が整備されています

第8話「熱海は東京よりも十度以上暖かいって本当?」

【文人に好まれた熱海の暖かさ】

 シェイクスピアの翻訳を手掛け、熱海に図書館の必要性を説いた後に
 有志と共に蔵書5,000冊以上を寄贈し熱海市立図書館創立の礎を築いた
 坪内逍遙。
 彼が最初に熱海を訪れたのは、大学生の頃、兄の病気療養の看護の
 ためでした。その後荒宿(現在の銀座町、糸川周辺)に別荘を建て、
 暮れから春の間この地で執筆に勤しんだ後、晩年は水口町の双柿舎に
 移り定住しました。彼が荒宿の別荘を構えていた頃、熱海に関して
 満足した事を日記の余白に書き並べたことがありましたが、その一つが
 熱海の冬の暖かさでした。
 『熱海と五十名家』(齋藤和堂編著)の中にある一節を紹介しましょう。

  「会心事の分。
    一、睛天には、極寒と雖も、うらうらといつも春三四月の氣候の如く、
      朝も晝(ひる)も夕も甚だしき氣温の變化(へんか)なし、
      雪も時として降れど、積ることは稀れなり、最も寒き日も
      日出づれば温度いちじるしく上りて、十二月より四月頃まで
      いつも同じやうなる事。
        
       近き山に雪はふれゝど常春日あたみの里に湯氣立ちわたる
       ロトス食ふ人住む島か眞冬にも常春の日のつゞく此里」
       (「熱海是非」坪内逍遙 より)


【市歌でも歌われる熱海の暖かさ】

 熱海市の市歌をご存知でしょうか。
 大正12年、坪内逍遙が当時の町長に作詞を依頼され作ったこの歌
 (当時は熱海町歌)に、熱海が温暖であることがはっきりと記されて
 います。

  「一 真冬を知らざる 常春熱海
     真夏も涼しき 秋の海辺に
     千歳を湧き湧く くすしきいで湯
     病めるも怠り 憂いも忘る
     ああこの楽土は 我らが住む町

   三 真冬を知らざる 常春熱海
     真夏も涼しき 秋の海辺の
     くすしきいで湯は 世界に知られ
     万里の涯より 千客いたる
     わがこの熱海は 世界の公園」

 一番と三番で「真冬も知らざる常春熱海 真夏も涼しき秋の海辺」と
 繰り返して歌われているのが分かります。冬温暖で、夏も暑さがそこまで
 辛くない、住みよい熱海の気候を、逍遙は気に入っていたのでしょう。

糸川沿いの逍遙歌碑の画像
糸川沿いに逍遙歌碑が建てられています。
逍遙の歌「ちかき山に ゆきはふれゝと 常春日 あたみのさとに
ゆけたちわたる せいえう」と刻まれています。
「熱海町歌」扁額の画像
坪内逍遙作詞の「熱海町歌」扁額
「熱海市役所のお宝展」にも展示しました。
熱海市歌歌碑の画像
サンレモ公園に熱海市歌の歌碑が建てられています

第7話「熱海駅に停車して丹那トンネルを最初に通った列車の行き先は?」

【有形文化財に指定された現場日誌】

 当時の工事の様子が分かる資料『丹那隧道東口(熱海口)現場日誌』が、
 丹那トンネル工事の際、鉄道省に勤めていた従業員の家族の方から、
 平成27年に熱海市に寄贈され、平成30年3月に熱海市指定有形文化財に
 指定されました。その一部を紹介します。
 ※紹介している箇所は、大正10年4月1日に崩落事故があった直後
 (大正10年4月9日・10日分)のものです。

  「四月九日
    一、午後五時頃生存者十七名ヲ娯楽所に移ス
    一、此ノ日ヨリ死体探索専門トナル
      西口よりの応援隊ハ解散帰所ス

   四月十日 
    一、昼間電燈停電シ夜間ノミ点検ス
    一、午前中坑内ノ救護所及暗室ヲ撤廃ス
    一、前田北沢連日ノ夜勤ノ為メ休業ス」 (「日誌1」より)


【困難を極めた丹那トンネル工事】

 度重なる崩壊により犠牲者が多数発生し、大量の出水が作業員を
 苦しめました。『丹那トンネルの話』(鐡道省熱海建設事務所)では
 以下のように書かれています。

  「大正十年陽春の四月一日午後四時二十分頃、熱海口の坑口から
   約千呎(フィート。1フィート=約30.5センチメートル)奥に
   入った處が、一大音響と共に約二チャイン位(約百三十呎)
   崩壊しました。(中略)そして崩壊した處は、トンネルの大きさに
   掘り擴げられてコンクリート巻きにかゝつてゐた處でありました。
   ですからこの崩壊の為に、坑奥と坑口が中断されて、奥で仕事を
   してゐた十七人は退路を遮断され、逃げ路を失つて、生ながら
   閉塞されました。崩壊の個所で仕事をして居りました十六名が
   生埋めになりました。(中略)崩壊と同時に中の様子を見ようと思つて
   恐る恐るカンテラで手さぐりに近づいてみますと、ドツト物凄い音が
   して、其度に疾風が起り、持つてゐたカンテラの灯が消えて仕舞ふのは
   口に云はれぬ怖ろしさでした。」 
   (「十三、世間の同情を蒐めた最初の大事故」より)

  「何しろ丹那盆地を中心とする一圓の山骨の割目に、千古湛へられて居た
   地下水が、坑道に向って此處を先途と噴き出したのですから、
   たまりません。殊に三島口四千九百五十呎の断層から七千呎迄の間及び
   熱海口九千呎から一萬呎邊り迄の水の劇しさは、見た人でなければ到底
   想ひもよらぬ事でせう。(中略)熱海口でも九千呎から先きは猛烈に
   水が流れ出て、それが三百封度(ポンド)といふ力を持つて居りました。
   普通消防ポンプのホースから出る水の力は二三十封度位のものですから、
   それに比べて三百封度はどの位のものか、圖面も見ながら想像して
   下さい。」 (「十六、水との戦ひ」より)

 丹那トンネルの工事では、多くの作業員が命を落としましたが、その殉職者の
 慰霊碑が丹那トンネル東口の真上に建立されています。


【丹那トンネル開通の様子】

 このような犠牲や苦難があり、昭和9年12月1日に開通した丹那トンネル。
 その開通とそこを通過する列車については、多くの新聞で取り上げられ
 ました。東京駅でも乗客が殺到し、遠くは三重県の新聞(勢州毎日新聞)でも
 取り上げられる程でした。新聞では、当時の状況を以下のように熱狂的に
 伝えています。

  「(中略)アヽ待望の處女列車!霜凍る夜空にドンと花火が打ち上り
   通過列車を全町の隅から隅まで傳へた、熱海驛や隧道入口に群がる人々、
   手に手に小旗をもつてドッとあがる歓聲だ、歓聲だ、(中略)停車する
   毎に町の人々は驛に押しかけて万歳を浴せかける、車窓から出る顔々々
   「お目出度う」「お目出度う」微笑み交す人々の心の美しさそのどの顔も、
   丹那隧道工事十六年を心から無言のうちにたゝへて居る」
   (讀賣新聞 昭和9年12月1日号 8面(静岡讀賣))

  「(中略)今まで閑散だつた改札口前が狂氣じみた群衆にもまれ出した、
   四つの改札口前に集まつた人々がざつと二千人、みんな地下道の奥の方を
   ながめながら早くも押し合ひへし合ひ順番を争ひはじめるとそこへ
   興奮した乗客はいよいよいきりたつて九時四十分改札されるとまるで堤を
   きつた洪水の勢ひで「ワアッ!」と鬨の聲をあげて地下道へ雪崩れ込み
   そのまゝ列車にとび込んでこんどは猛烈な座席の争奪戦をはじめた、
   ホームから列車の中はあちこちに喧嘩の花が咲くほどのこみ合ひだ、」
   (讀賣新聞 昭和9年12月1日号 7面)

『丹那隧道東口(熱海口)現場日誌』の画像
文化財指定された『丹那隧道東口(熱海口)現場日誌』
熱海市立図書館で閲覧できます。
※市指定有形文化財のため、閲覧の際には取り扱いに
十分ご注意ください。
丹那トンネル殉職者慰霊碑の画像
丹那トンネル殉職者の慰霊碑
「勢州毎日新聞昭和9年12月1日号」の画像
丹那トンネル開通を大々的に掲載した勢州毎日新聞記事
(昭和9年12月1日号)
※大きい画像をご覧になりたい場合は、下の添付ファイル
(「勢州毎日新聞記事」)からご覧ください。

第6話「温泉宿のまちにホテルが出現!~成島柳北も称賛した~」

【『熱海温泉案内』で紹介される樋口ホテル】

 日本で3番目に建てられたといわれる「樋口ホテル」は、明治24年(1891年)
 『熱海温泉案内』という案内冊子を発行し、熱海温泉と自らのホテルを
 宣伝しました。今回の「歴史こぼれ話」で紹介した「食事の調え方」は、
 この冊子に紹介されていたもので、次のように記されています。

  「客人の温泉宿に滞在(とうりゅう)する間坐敷及び臥道具(ねどうぐ)
  飲食器具(のみくいのどうぐ)は固(もと)より客舎にて貸すものなれど
  食物の調へ方は種々ありて客人の好みに任す ○第一を自賄(じまかなひ)と云ふ
  客人自ら食物を調へ又は下婢(げじょ)を雇ふて調へしむるなり ○第二を俗に
  伺ひ(うかがひ)と云ふ 客舎より三度三度調理すべき食物を客人に伺ふて
  調ふる故の名なり 食物に好き嫌いある人又は毒絶(どくだて)ある人は
  面倒と入費の嵩む憂ひあれどもこの二つの内を擇(えら)まざるべからず
  ○第三を宿賄ひ(やどまかなひ)と云ふ 賄料一日何程と定めて客舎の適宜に
  食物を調へしむるなり 客舎によりては宿賄ひを謝(ことわ)るものあれど、
  弊店(てまへ)にては三種とも御好みに任す 又、客舎にて洋食賄ひをなすは
  弊店一軒のみなり。」


【成島柳北について】

 次に成島柳北ですが、彼は将軍徳川家茂(とくがわいえもち)の侍講
(将軍などに学問を教える職)などを経て、幕末には騎兵頭(きへいがしら)、
 外国奉行、会計副総裁などを歴任しました。しかし、明治維新後は新政府には
 仕えず、明治5年(1872年)欧州を巡り、帰国後の明治7年(1874年)に
 『朝野新聞』を創刊して社長に就任しました。
 山田兼次氏の著書『熱海風土記』から彼について書かれた一節を紹介しましょう。
 
  「柳北は、明治11年(1878年) 9月、箱根から十国峠を越えて熱海に入湯し、
   「澡泉紀遊」(そうせんきゆう)を朝野新聞社発行の「花月新誌」に連載し、
    熱海の美しい風光をひろく世間に紹介した。明治14年(1881年)の熱海紀行
   「鴉(からす)のゆあみ」(『熱海文藪(ぶんそう)』)には、その1、2月の
   ころ、熱海に滞在していた知名人の名が列挙されていて、当時の浴客の傾向を
   知ることができる。
   〈熱海ニ達ス。先ヅ浴客ノ多少ヲ問フ。與丁(よてい)曰ク、居マストモ
    居マストモ、参議デハ大隈さん、伊藤さん、今晩井上(馨)さんモ
    御座ルシ、横浜高島屋ノ旦那
   (高島嘉右衛門)、神奈川ノ県令(野村靖)さん、裁判ノ富永藤治
   (冬樹)さん、佐土原ノ殿様(島津忠寛)、高崎ノ殿様(大河内輝声)ヲ
    始メ、上ノ湯屋ハ大入リダ〉」


 熱海での功績を称えて建てられた成島柳北の記念碑は、昭和10年
(1935年)、当時の樋口旅館の庭内に建てられましたが、現在は
 「マリンスパあたみ」のある熱海海浜公園の入口に移されています。
 石碑の裏側には、彼が詠んだ歌

  「う志(し)と見る よにただひとつ たのしきは あたみのさとの ゆあみなりけ里(り)」
 
 が刻まれています。

成島柳北記念碑表側の画像
成島柳北の記念碑(表側)
柳北の肖像が彫られています。
成島柳北記念碑裏側の画像
成島柳北の記念碑(裏側)
柳北の歌が刻まれています。

第5話「恋の成就はまかせて!~「業平井戸」~」

「業平井戸」(なりひらのいど)の名称は、平安時代に著された
『伊勢物語』(在原業平を思わせる男を主人公とした和歌にまつわる
短編の歌物語集)に由来するといわれています。関係する物語の一部を
紹介しましょう。

 「 二十三 
     むかし、田舎わたらひしける人の子ども、井のもとに出でてあそびけるを、
   大人になりにければ、おとこも女も恥ぢかはしてありけれど、おとこは
   この女をこそ得めと思ふ。女はこのおとこをと思ひつゝ、親のあはすれども、
   聞かでなんありける。さて、この隣のおとこのもとよりかくなん。
     筒井つの井筒にかけしまろがたけ過ぎにけらしな妹みざるまに
   女、返し、
     くらべこし振分髪も肩すぎぬ君ならずして誰かあぐべき
   などいひいひて、つゐに本意のごとくあひにけり。」
      (出典:日本古典文学体系9『竹取物語 伊勢物語 大和物語』 岩波書店)


「業平井戸」の話は「歴史こぼれ話」の本文にも書いたように、18世紀
(江戸中期)に活躍した横井也有(尾張藩の要職を歴任した文武両道の武士で、
俳人としても有名)も『熱海紀行』に記しているわけですが、すでに元禄12年
(1699年)に鈴木秋峰が著した『豆州熱海地志』でも紹介されています。
また、大正時代に書かれた『新撰熱海案内』(齋藤要八著)では、
熱海の名所の一つとして、以下のように紹介されています。

  「業平井  新宿の道端に在り。昔は業平朝臣の詠歌にちなみて、男女共に
   井水に影をうつして、婚姻の縁を結びしことありしも、今は斯る風習もなく、
   只故址を存ずるのみ。
     豆ひきの影や井筒のまめをとこ  横井也有」
      (出典:『新撰熱海案内』 熱海温泉場旅館組合(大正14年10月1日 三版))
 

また、地図では、本文に掲載した天和元年(1681年)の『豆州熱海絵図』
(現存する熱海の最も古い絵地図)の他、元禄8年(1695年)の絵地図
『豆州熱海湯治道知辺(あたみとうじみちしるべ)』にもはっきりと描かれています。
ですから、300年以上も前から人々に知られ、語り継がれているロマンチックな
井戸の話ということになります。

「歴史こぼれ話」の本文に掲載したのは、『豆州熱海絵図』の一部(部分図)ですが、
このページでは絵地図の全体を紹介します。
御殿(現熱海市役所の地)や熱海村の温泉宿、伊豆山権現(現伊豆山神社)の
様子などが描かれていますので、ご覧ください。

「豆州熱海絵図」の画像
「豆州熱海繪圖」
※大きい画像をご覧になりたい場合は、下の添付ファイル(「豆州熱海絵図」)からご覧ください。

第4話「「金色夜叉の碑」を建てるなど、もってのほか!」

第4話の執筆時に参考にした『熱海温泉いしぶみ巡り』
(久保田道雄が熱海新聞に連載したもの)には、「金色夜叉の碑」を建設した
経緯が詳しく書かれています。第4話では紙面の都合上、触れなかったことを
『いしぶみ巡り』からいくつか紹介します。


【「金色夜叉の碑」の碑文について】

 「碑文を誰に書いて貰うか―と云うことは當時相當に研究され一部では泉鏡花、
 巌谷小波氏という説が多かった。然し、金色夜叉としては『後の金色夜叉』を
 小栗風葉氏が書いて居り、然もその終末を再び熱海々岸へ持って來て
 狂えるお宮を抱いた貫一が海に向かって、『宮さん二人は淋しいねえ-』と
 叫ぶあたり、小説を主として考えた場合小栗風葉氏とすべきだ―と云う
 文学青年の説が勝を占めて現在の風葉氏のものとなつた。
 『宮に似たうしろ姿や春の月』と云う名句が、其の後どんなに熱海を
 宣傳したか!建碑以来三十余年、風葉山人に對しても改めて感謝の意を
 表さねばなるまい。」


【キティ台風に見舞われた時の様子】

 「此の金色夜叉の碑も、先ごろのキテイ台風の時に全く崩壊し、いしぶみも
 危く海中に沒し去らんとしたのだが、當時の代議士、つるや旅館畠山鶴吉氏が
 人夫數十名を雇あげて碑をロープで結び、辛うじて流失を免れしめた!
 後、觀光課の復舊工事により舊態に復するを得たがあの碑の上部の欠けてゐる
 ことは其の時の遭難の記念と云う譯である。」


【碑の建設を計画した神保弥三郎へ感謝状】

 「昭和23年1月17日 時の熱海市長岸衛氏は神保氏の遺徳を偲び、その遺族に
 感謝狀を贈呈してゐる。

    感 謝 狀 
  故神保彌三郎氏が故尾崎紅葉山人の名作『金色夜叉』を永遠に記念する爲め、
  同志と共に大正八年八月十五日、此の地に金色夜叉の記念碑を建設され、爾来
  風雨星霜三十年熱海の名をして紅葉と共に宣揚されたことは今日まことに
  感謝に堪えません。こゝに、紅葉逝いて五十年の梅まつりに際して感謝狀を
  贈り深く感謝の意を表します。             
               昭和二十三年一月十七日 熱海市長 岸 衛」
 

今回は、実際に「熱海温泉いしぶみ巡り」が連載されていた新聞記事を
下に掲載しますので、ご覧ください。

熱海温泉いしぶみ巡り記事
「熱海温泉いしぶみ巡り」記事(出典:熱海新聞 昭和29年9月3日付)
※大きい画像をご覧になりたい場合は、下の添付ファイル(「熱海温泉いしぶみ巡り」記事)からご覧ください。

第3話「海水浴は病気治療?~熱海の海水浴場は早く開かれた!~」

【『改正増補 熱海鑛泉誌』に書かれた「海水浴」】

 明治26年(1893年)9月に発行された『改正増補 熱海鑛泉誌』
 (青木純造著)では「第九章 海水浴」という項目に「海水浴」の
 説明が約7ページにわたって書かれています。

 そのはじめの部分を紹介します。
「海水浴は西暦1796年初めて英国に出生し、その教育遅々たりしが、
 1880年ドイツ国の博士「ベネッケ」氏、盛んにその必要を論じ、
 斡旋計画おおいに尽くすところあり。
 ついに多くの賛成を得て、「ノルデルナイ」島に海浜院を設立せしより
 以来、国内さかんにおこり、しいてこれを東海に及ぼし、今日の盛大を
 見るに至れり。我国において海水浴の起れる日なお浅しといえども、
 すでに数所の浴場を見る。而(しか)して熱海は横磯及び魚見岬の
 下に浴場を開きたり。蓋(けだ)し、この地たる天然を補うて手を入れ
 波除けを築きて潮流の荒れるを防ぎ、兼ねるに風景の佳なるあり。
 海水浴に適するはここに蝶々するを要せざるなり。」
  ※蝶々…しきりにしゃべるさま

 「(中略)海水浴は古来、神経強壮浴と称するものにして、浴後は
 心持ちさっぱりとなり、かの温泉浴後、身心倦怠を覚うるごときこと、
 あることなし。今その効用を約言すれば、寒冷、塩分、波浪の合働刺激に
 あり。さらにこれを詳説せんに、この三刺激により、皮膚の末梢神経
 作用興奮し、皮表の血管収縮し、血液を内部に送入し、筋肉収縮し、
 かつ皮膚の垢(あか)を去る。これに加え、海水の温度と体温とは
 甚だしき差あるをもって、にわかに体温を奪ふ。この作用、波浪の
 変転窮まりなく、・・・(中略)・・・もって血液の運行を盛んにし
 新陳代謝を活発ならしむ。」

 

【『豆州熱海全図』について】

 「あたみ歴史こぼれ話」に掲載した『豆州熱海全図』は
 明治20年(1887年)9月に熱海の萬屋平次郎が発行した絵地図です。
 広報あたみでは紙面の都合上、海水浴場の部分のみを掲載しましたが、
 このページでは地図全体を紹介します。

 この地図が発行された翌年の明治21年(1888年)、今の市役所の地に
「熱海御用邸」が竣工しますが、この地図ではまだ「宮内省御用地」と
 なっています。そして、隣には「熱海学校」があるのがわかります。

 現在の市内の地図と見比べてみると、海水浴場の場所や街並みの違いが
 よくわかると思います。

「豆州熱海全図」(古地図)の画像
「豆州熱海全図」
※大きい画像をご覧になりたい場合は、下の添付ファイル(「豆州熱海全図」)からご覧ください。

第2話「人車鉄道にも軽便鉄道にも乗りたくない!」

【「豆相人車鉄道」について】

 この鉄道計画に参加した人々は、茂木惣兵衛、高島嘉右衛門、雨宮敬次郎、
 大倉喜八郎、平沼専三などの実業家と、石渡喜右衛門(富士屋)、
 樋口忠助(気象万千楼)、露木準三(香霞館)などの当時の熱海の
 一流旅館主でした。

 開業は、熱海から吉浜までの間が明治28年(1895年)7月、吉浜から
 小田原までの間が明治29年(1896年)3月で、全長25キロメートルの単線。
 熱海と小田原(早川口)の間に伊豆山、門川、吉浜、城口、江の浦、
 米神などの停車場が設けられ、路線の約半分の13キロメートルは
 熱海街道(ほぼ現在の国道135号線)上を通っていました。

 熱海・小田原間の運賃は、上等車1円、中等車60銭、下等車40銭で
 明治33年(1900年)9月の運賃表によると、1日6往復運転されました。
 

【「軽便鉄道」について】

 人車鉄道のレール幅を610ミリメートルから762ミリメートルに拡げ、
 明治40年(1907年)12月から蒸気機関車1両、客車(定員36名)1両の
 編成で営業運転を始めました。大正2年(1913年)4月の時刻表によると
 1日7往復運転され、熱海・小田原間の所要時間は2時間20分ほどで、
 例えば新橋を午前8時30分に出発すると、国府津と小田原で乗り換えて、
 午後1時18分には熱海に着くことができました。
 (当時の東京・熱海間の所要時間は5時間弱でした)

 大正9年(1920年)、国鉄熱海線が建設されることとなったため、
 軽便鉄道は政府に補償買収され、熱海線工事の進行とともに運転区間が
 短縮されていきましたが、最終的には対象12年(1923年)の
 関東大震災により線路や停車場が壊滅的打撃を受け、廃線となりました。

豆相人車鉄道時刻表の画像
「豆相人車鉄道」時刻表(明治30年(1897年)10月1日改正版)
軽便鉄道の時刻表の画像
「軽便鉄道」時刻表(明治44年(1911年)5月1日改正版)
(出典:豆相新聞 明治44年6月27日発行)
人車鉄道・軽便鉄道小田原駅から米神駅までの画像
人車鉄道・軽便鉄道駅及び軌道「小田原駅から米神駅まで」
(出典:『ガイドマック 豆相人車鉄道歴史街道物語』)
人車鉄道・軽便鉄道根府川駅から吉浜駅までの画像
人車鉄道・軽便鉄道駅及び軌道「根府川駅から吉浜駅まで」
(出典:『ガイドマック 豆相人車鉄道歴史街道物語』)
人車鉄道・軽便鉄道真鶴駅から伊豆山駅までの画像
人車鉄道・軽便鉄道駅及び軌道「真鶴駅から伊豆山駅まで」
(出典:『ガイドマック 豆相人車鉄道歴史街道物語』」)
人車鉄道・軽便鉄道熱海駅周辺の画像
人車鉄道・軽便鉄道駅及び軌道「熱海駅周辺」
(出典:『ガイドマック 豆相人車鉄道歴史街道物語』」)
人車鉄道の熱海停車場の写真
人車鉄道の熱海停車場(提供:今井写真館)
軽便鉄道の画像
軽便鉄道(提供:今井写真館)

第1話「熱海の景色は素晴らしい!~江戸時代には『豆州熱海十景』が出版された~」

【『豆州熱海十景』について】

 藤原某(姓は藤原、名は不明)が熱海の噂を聞き、
 実際に訪れてその景色に感動し、絵に描き、歌に詠んで、
 元禄16年(1703年)に出版したものです。
 
 原本は絵と歌が別々に掲載されていますが、
 今回は熱海温泉組合(1925年設立)が創立50周年を
 記念して作成した復刻版(絵の中に歌が書かれている)を
 紹介します。

(出典:『熱海温泉組合創立五十周年記念出版 熱海十景 元禄十六年』)

「熱海湯煙」の画像
「熱海湯煙」
 はるの夜に 出湯のけふり 立籠て かすめるそらの 山の端の月
「都松晴嵐」の画像
「都松晴嵐」
 峯はれて みどりの春に あひおひの 松に名にをふ 都とはばや
「聖廟山花」の画像
「聖廟山花」
 あれはてて ぬさも取りあへず いたづらに さくらちりしく 神垣の庭
「大島帰帆」の画像
「大島帰帆」
 春風の しほやく煙 吹はけて つり船とをく みゆる大島
「山寺晩鐘」の画像
「山寺晩鐘」
 峯おがみ 霞籠たる 山寺の 花ぞちりしく 入相のかね
「錦浦秋月」の画像
「錦浦秋月」
 秋の浦や しぐれて過る にしきまで 月にきほへる 波のくれない
「和田落雁」の画像
「和田落雁」
 小山田の 稲葉露けき 夕暮に 一つらみへて 落るかりがね
「走湯丹葉」の画像
「走湯丹葉」
 はしりゆの 山の高ねを 見渡せば しぐれにふかき 田方の紅葉
「初島夜雨」の画像
「初島夜雨」
 あらいその 波たつ雨の くらき夜に しこもる船の 伊豆の初島
「日金暮雪」の画像
「日金暮雪」
 かきくもる 日がねの山は ふじに似て 木ずえにふかく 見ゆるしら雪

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