広報あたみで「あたみ歴史こぼれ話」を連載しています。

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ページ番号1007134  更新日 令和1年11月26日

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歴史資料管理室では、令和元年(2019年)5月号の広報あたみより
「あたみ歴史こぼれ話」を連載しています。

熱海市史などの歴史書や古絵図などで語られている歴史の裏の
意外な事実を、毎月分かりやすくご紹介しています。
現在と比べて読み進めると面白いかもしれません。

「あたみ歴史こぼれ話」のバックナンバーを下に掲載しましたので
是非ご覧ください!

※広報あたみの原本をご覧になりたい方は、バックナンバー下の
 リンク先(「広報あたみ」)からご覧ください。

あたみ歴史こぼれ話第4話の画像
「あたみ歴史こぼれ話」第4話(令和元年(2019年)8月号掲載)
あたみ歴史こぼれ話第3話の画像
「あたみ歴史こぼれ話」第3話(令和元年(2019年)7月号掲載)
あたみ歴史こぼれ話第2話の画像
「あたみ歴史こぼれ話」第2話(令和元年(2019年)6月号掲載)
あたみ歴史こぼれ話第1話の画像
「あたみ歴史こぼれ話」第1話(令和元年(2019年)5月号掲載)

あたみ歴史こぼれ話―本編の後に

このコーナーでは、「あたみ歴史こぼれ話」で
掲載しきれなかったことを中心にご紹介します。
本編を読み進んだ後に、ご覧ください。

※このページで掲載されている画像は、閲覧のみ可能といたします。
 画像の保存、複製及び使用は禁止といたしますのでご遠慮ください。

第4話「「金色夜叉の碑」を建てるなど、もってのほか!」

第4話の執筆時に参考にした『熱海温泉いしぶみ巡り』
(久保田道雄が熱海新聞に連載したもの)には、「金色夜叉の碑」を建設した
経緯が詳しく書かれています。第4話では紙面の都合上、触れなかったことを
『いしぶみ巡り』からいくつか紹介します。


【「金色夜叉の碑」の碑文について】

 「碑文を誰に書いて貰うか―と云うことは當時相當に研究され一部では泉鏡花、
 巌谷小波氏という説が多かった。然し、金色夜叉としては『後の金色夜叉』を
 小栗風葉氏が書いて居り、然もその終末を再び熱海々岸へ持って來て
 狂えるお宮を抱いた貫一が海に向かって、『宮さん二人は淋しいねえ-』と
 叫ぶあたり、小説を主として考えた場合小栗風葉氏とすべきだ―と云う
 文学青年の説が勝を占めて現在の風葉氏のものとなつた。
 『宮に似たうしろ姿や春の月』と云う名句が、其の後どんなに熱海を
 宣傳したか!建碑以来三十余年、風葉山人に對しても改めて感謝の意を
 表さねばなるまい。」


【キティ台風に見舞われた時の様子】

 「此の金色夜叉の碑も、先ごろのキテイ台風の時に全く崩壊し、いしぶみも
 危く海中に沒し去らんとしたのだが、當時の代議士、つるや旅館畠山鶴吉氏が
 人夫數十名を雇あげて碑をロープで結び、辛うじて流失を免れしめた!
 後、觀光課の復舊工事により舊態に復するを得たがあの碑の上部の欠けてゐる
 ことは其の時の遭難の記念と云う譯である。」


【碑の建設を計画した神保弥三郎へ感謝状】

 「昭和23年1月17日 時の熱海市長岸衛氏は神保氏の遺徳を偲び、その遺族に
 感謝狀を贈呈してゐる。」

    感 謝 狀 
  故神保彌三郎氏が故尾崎紅葉山人の名作『金色夜叉』を永遠に記念する爲め、
  同志と共に大正八年八月十五日、此の地に金色夜叉の記念碑を建設され、爾来
  風雨星霜三十年熱海の名をして紅葉と共に宣揚されたことは今日まことに
  感謝に堪えません。こゝに、紅葉逝いて五十年の梅まつりに際して感謝狀を
  贈り深く感謝の意を表します。             
               昭和二十三年一月十七日 熱海市長 岸 衛
 

今回は、実際に「熱海温泉いしぶみ巡り」が連載されていた新聞記事を
下に掲載しますので、ご覧ください。

熱海温泉いしぶみ巡り記事
「熱海温泉いしぶみ巡り」記事(出典:熱海新聞 昭和29年9月3日付)
※大きい画像をご覧になりたい場合は、下の添付ファイル(「熱海温泉いしぶみ巡り」記事)からご覧ください。

第3話「海水浴は病気治療?~熱海の海水浴場は早く開かれた!~」

【『改正増補 熱海鑛泉誌』に書かれた「海水浴」】

 明治26年(1893年)9月に発行された『改正増補 熱海鑛泉誌』
 (青木純造著)では「第九章 海水浴」という項目に「海水浴」の
 説明が約7ページにわたって書かれています。

 そのはじめの部分を紹介します。
「海水浴は西暦1796年初めて英国に出生し、その教育遅々たりしが、
 1880年ドイツ国の博士「ベネッケ」氏、盛んにその必要を論じ、
 斡旋計画おおいに尽くすところあり。
 ついに多くの賛成を得て、「ノルデルナイ」島に海浜院を設立せしより
 以来、国内さかんにおこり、しいてこれを東海に及ぼし、今日の盛大を
 見るに至れり。我国において海水浴の起れる日なお浅しといえども、
 すでに数所の浴場を見る。而(しか)して熱海は横磯及び魚見岬の
 下に浴場を開きたり。蓋(けだ)し、この地たる天然を補うて手を入れ
 波除けを築きて潮流の荒れるを防ぎ、兼ねるに風景の佳なるあり。
 海水浴に適するはここに蝶々するを要せざるなり。」
  ※蝶々…しきりにしゃべるさま

 「(中略)海水浴は古来、神経強壮浴と称するものにして、浴後は
 心持ちさっぱりとなり、かの温泉浴後、身心倦怠を覚うるごときこと、
 あることなし。今その効用を約言すれば、寒冷、塩分、波浪の合働刺激に
 あり。さらにこれを詳説せんに、この三刺激により、皮膚の末梢神経
 作用興奮し、皮表の血管収縮し、血液を内部に送入し、筋肉収縮し、
 かつ皮膚の垢(あか)を去る。これに加え、海水の温度と体温とは
 甚だしき差あるをもって、にわかに体温を奪ふ。この作用、波浪の
 変転窮まりなく、・・・(中略)・・・もって血液の運行を盛んにし
 新陳代謝を活発ならしむ。」

 

【『豆州熱海全図』について】

 「あたみ歴史こぼれ話」に掲載した『豆州熱海全図』は
 明治20年(1887年)9月に熱海の萬屋平次郎が発行した絵地図です。
 広報あたみでは紙面の都合上、海水浴場の部分のみを掲載しましたが、
 このページでは地図全体を紹介します。

 この地図が発行された翌年の明治21年(1888年)、今の市役所の地に
「熱海御用邸」が竣工しますが、この地図ではまだ「宮内省御用地」と
 なっています。そして、隣には「熱海学校」があるのがわかります。

 現在の市内の地図と見比べてみると、海水浴場の場所や街並みの違いが
 よくわかると思います。

「豆州熱海全図」(古地図)の画像
「豆州熱海全図」
※大きい画像をご覧になりたい場合は、下の添付ファイル(「豆州熱海全図」)からご覧ください。

第2話「人車鉄道にも軽便鉄道にも乗りたくない!」

【「豆相人車鉄道」について】

 この鉄道計画に参加した人々は、茂木惣兵衛、高島嘉右衛門、雨宮敬次郎、
 大倉喜八郎、平沼専三などの実業家と、石渡喜右衛門(富士屋)、
 樋口忠助(気象万千楼)、露木準三(香霞館)などの当時の熱海の
 一流旅館主でした。

 開業は、熱海から吉浜までの間が明治28年(1895年)7月、吉浜から
 小田原までの間が明治29年(1896年)3月で、全長25キロメートルの単線。
 熱海と小田原(早川口)の間に伊豆山、門川、吉浜、城口、江の浦、
 米神などの停車場が設けられ、路線の約半分の13キロメートルは
 熱海街道(ほぼ現在の国道135号線)上を通っていました。

 熱海・小田原間の運賃は、上等車1円、中等車60銭、下等車40銭で
 明治33年(1900年)9月の運賃表によると、1日6往復運転されました。
 

【「軽便鉄道」について】

 人車鉄道のレール幅を610ミリメートルから762ミリメートルに拡げ、
 明治40年(1907年)12月から蒸気機関車1両、客車(定員36名)1両の
 編成で営業運転を始めました。大正2年(1913年)4月の時刻表によると
 1日7往復運転され、熱海・小田原間の所要時間は2時間20分ほどで、
 例えば新橋を午前8時30分に出発すると、国府津と小田原で乗り換えて、
 午後1時18分には熱海に着くことができました。
 (当時の東京・熱海間の所要時間は5時間弱でした)

 大正9年(1920年)、国鉄熱海線が建設されることとなったため、
 軽便鉄道は政府に補償買収され、熱海線工事の進行とともに運転区間が
 短縮されていきましたが、最終的には対象12年(1923年)の
 関東大震災により線路や停車場が壊滅的打撃を受け、廃線となりました。

豆相人車鉄道時刻表の画像
「豆相人車鉄道」時刻表(明治30年(1897年)10月1日改正版)
軽便鉄道の時刻表の画像
「軽便鉄道」時刻表(明治44年(1911年)5月1日改正版)
(出典:豆相新聞 明治44年6月27日発行)
人車鉄道・軽便鉄道小田原駅から米神駅までの画像
人車鉄道・軽便鉄道駅及び軌道「小田原駅から米神駅まで」
(出典:『ガイドマック 豆相人車鉄道歴史街道物語』)
人車鉄道・軽便鉄道根府川駅から吉浜駅までの画像
人車鉄道・軽便鉄道駅及び軌道「根府川駅から吉浜駅まで」
(出典:『ガイドマック 豆相人車鉄道歴史街道物語』)
人車鉄道・軽便鉄道真鶴駅から伊豆山駅までの画像
人車鉄道・軽便鉄道駅及び軌道「真鶴駅から伊豆山駅まで」
(出典:『ガイドマック 豆相人車鉄道歴史街道物語』」)
人車鉄道・軽便鉄道熱海駅周辺の画像
人車鉄道・軽便鉄道駅及び軌道「熱海駅周辺」
(出典:『ガイドマック 豆相人車鉄道歴史街道物語』」)
人車鉄道の熱海停車場の写真
人車鉄道の熱海停車場(提供:今井写真館)
軽便鉄道の画像
軽便鉄道(提供:今井写真館)

第1話「熱海の景色は素晴らしい!~江戸時代には『豆州熱海十景』が出版された~」

【『豆州熱海十景』について】

 藤原某(姓は藤原、名は不明)が熱海の噂を聞き、
 実際に訪れてその景色に感動し、絵に描き、歌に詠んで、
 元禄16年(1703年)に出版したものです。
 
 原本は絵と歌が別々に掲載されていますが、
 今回は熱海温泉組合(1925年設立)が創立50周年を
 記念して作成した復刻版(絵の中に歌が書かれている)を
 紹介します。

(出典:『熱海温泉組合創立五十周年記念出版 熱海十景 元禄十六年』)

「熱海湯煙」の画像
「熱海湯煙」
 はるの夜に 出湯のけふり 立籠て かすめるそらの 山の端の月
「都松晴嵐」の画像
「都松晴嵐」
 峯はれて みどりの春に あひおひの 松に名にをふ 都とはばや
「聖廟山花」の画像
「聖廟山花」
 あれはてて ぬさも取りあへず いたづらに さくらちりしく 神垣の庭
「大島帰帆」の画像
「大島帰帆」
 春風の しほやく煙 吹はけて つり船とをく みゆる大島
「山寺晩鐘」の画像
「山寺晩鐘」
 峯おがみ 霞籠たる 山寺の 花ぞちりしく 入相のかね
「錦浦秋月」の画像
「錦浦秋月」
 秋の浦や しぐれて過る にしきまで 月にきほへる 波のくれない
「和田落雁」の画像
「和田落雁」
 小山田の 稲葉露けき 夕暮に 一つらみへて 落るかりがね
「走湯丹葉」の画像
「走湯丹葉」
 はしりゆの 山の高ねを 見渡せば しぐれにふかき 田方の紅葉
「初島夜雨」の画像
「初島夜雨」
 あらいその 波たつ雨の くらき夜に しこもる船の 伊豆の初島
「日金暮雪」の画像
「日金暮雪」
 かきくもる 日がねの山は ふじに似て 木ずえにふかく 見ゆるしら雪

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